解説:マウナロア大噴火の際のリリウオカラニとルース王女

 

 1880年のマウナロア大噴火に居合わせたリリウオカラニは、一行の人々がみな火口に捧げものを持ってお参りに出かけていくのを一人見送り、ホテルに残った、と書き記しています。

彼女はなぜ、みんなと一緒に火口まで行かなかったのでしょう?

私は読んでいて、そこにひっかかりました。

 

 リリウオカラニは「炎の女神ペレを畏怖する迷信を打ち破った、わが伯母である女酋長カピオラニの勇敢な行為」について言及しています。

カピオラニは、ハワイ島ヒロの酋長だったケアヴェマウヒリの娘で、カメハメハ大王の遠い親戚の一人でもあります。カラーカウア一族にとっては、祖父の伯母にあたる存在です。

また、彼女の甥クヒオ・カラニアナオレは自分の娘に彼女にちなみカピオラニという名をつけました。この娘がのちにカラーカウア王の妻となるカピオラニ王妃です。

 

 リリウオカラニたちの祖先の一人である女酋長カピオラニは、ハワイでも最も早くにキリスト教に改宗した先住民の一人でした。

宣教師たちの作った学校に加わり、読み書きを身につけ、キリストの教えを学びます。

そして1824年、彼女は歩いてキラウエア火山に登り、ハレマウマウの火口につくと、ペレを祀る神官たちや周囲の人々が「ペレの炎で焼かれて石にされるぞ」と警告するのを振り切り、火口の淵に降りて行きました。そして伝統的なペレに捧げる祈りではなく、キリスト教の祈りを捧げ賛美歌を歌いました。

見守る人々はペレが怒りの炎を噴き上げるだろうと思っていたのですが、彼女は全くの無傷で生還しました。

この出来事によって、女神ペレの祟りなど迷信であると証明したのです。

この出来事は、ハワイの人々がキリスト教に改宗していくうえでの非常に大きな出来事で、宣教師たち、白人にとっても重要な出来事でした。当時の欧米の新聞にもこの出来事は取り上げられ、詩人テニソンはカピオラニを称える詩を書き上げるなど、彼女を聖女として賞賛するようになりました。

 

 自分がこのカピオラニの一族であることを、リリウオカラニが誇らしく思っていたことが本文中からも感じられます。

何と言ってもリリウオカラニは四歳の時からキリスト教の寄宿学校(王族子弟学校)でみっちり仕込まれた子供時代を持っています。

そして、この学校を出て、結婚した後も、勉強をしたいと自分から思ってオアフ・カレッジで学びを続けています。

 

(余談ですが、このときリリウを教えた教師、スーザン・ミルズはのちにオークランドに移り、アメリカの女子教育の草分け、名門のミルズ・カレッジを開くことになります。リリウが1878年に西海岸を訪れたときに、ミルズ女史とも再会を果たしています。)

 

大好きな音楽や詩、そして読み書きのみならず、歴史や自然科学の分野にも強い興味と意欲をもって、勉強を生涯の友としたリリウオカラニは、カピオラニの行為を、ペレ(という古い教え)への挑戦というよりは、「大自然の力に立ち向かう」というクールな書き方をしています。

 

 キリスト教の教えの中で育った彼女は、「ペレに対する捧げ物」という行為は、古い因習、時代遅れの迷信にすぎない、と考えていたのだろうか?

それとも、ペレへの畏敬の念は持ちつつも、冷静に科学の目で事象を捉えようとつとめていたのだろうか?

どちらだったのだろう?

 

 本文で、彼女は「こうした行為は世界中によく見られる慣習」であり、「高度に洗練され教育を受けた人々の社会では、迷信も楽しく愉快な形に変化して使われている。」と、ハワイの人々の慣習を文化の一つとして捉えるよう読者に印象付けています。

そういいながらも、リリウオカラニ自身はその「楽しく愉快な」やり方に加わっていません。

これは、どうしてなのでしょう。

 

 このあとの13章でも、このときのマウナロアの噴火が収まらないハワイ島へ摂政(国王代行)リリウオカラニは再び出向いていきます。そして、恐怖に怯える島民たちと友に、教会の祈りの集いに参 加し、島の人々と気持ちを分かちあっている様子が描かれています。

 が、実はこのとき、ルース王女がハワイ島の島民からの要請に応えて、噴出のとまらない溶岩流に対し、古代ハワイの伝統的な祈りの儀式で噴火を鎮める祈りの儀式を行いました。

溶岩の縁に向かう形でルース王女は、一晩祈りを捧げ続けたところ、翌朝、溶岩の流れは止まったという話を島の人々は語り伝えていますが、なぜかこの出来事にリリウオカラニは一切触れておらず、また当時の新聞もこの話は伝えていないそうです。

 

 ルース王女の祈りの儀式は実際に行われた出来事です。

が、当時の新聞はキリスト教の感化の道具として使われていた側面が大きかったそうです。

それゆえ、ルース王女の行った古代ハワイの儀式(ヒロ市民からの要請だったようですが)について、新聞はあえて触れなかったのではないだろうか。

ましてやハワイ島の人々は、「ルース王女が一晩祈りを捧げたおかげで、溶岩流はヒロの町の1・5マイル手前ギリギリのところで止まった」とルース王女を称える話を語り継いでいるのですから。

 

 リリウオカラニは、物心ついたときからキリスト教の教えの中で育ち、夫も白人です。

学んだ教師たちも白人の宣教師たちがほとんどだったようですから、ハワイ古来の信仰とは、少なくとも公の立場としては一線を引いていたのかもしれません。

  

 その一方で、親しく付き合いのあった教師の一人、エイブラハム・フォーナンダーは(10章でもマウイ島の友人の一人として名前があがっていますが)、ハワイの神話や伝説を精力的に収集した人として知られていますが、彼はハワイ古来の信仰や宗教観を尊重するべきだと考えていたようです。

 

同じ王族でリリウオカラニの弟の養母だったルース王女は、徹底的にハワイ人としてのアイデンティティーを貫いた人です。

また、リリウオカラニが心から敬愛していたと言われるロット王子ことカメハメハ五世も、同じ宣教師の学校で育ちながらもハワイ人の伝統文化を大切に守り抜いた人でした。

彼らからの影響も受けているであろうリリウオカラニの中にも、ハワイ人とその文化を大切に守るのが君主としての務めであるという考えがあったはずです。

 

 リリウオカラニ自身は、自らを生涯かわらぬ学究の徒であると書いています。

本書を出版する前年、1897年には、兄王カラーカウアがハワイ古代の伝承の守り手であるカフナたちを集めて編纂した「クムリポ」という、ハワイの創生神話ともいえる年代記を、自分の手で初めて英語訳しています。

そこでは、自分自身の家系を伝える伝誦を含む、ハワイの様々な生物と人間がいかにして生まれ出たかについての言い伝えが、一つ一つていねいに、科学的に読み取れるような形で英語に訳されています。

 リリウオカラニは、ともすれば白人たちから「異教の教え」とか「未開人の民話」と片付けられかねない自分の祖先たちの物語を、科学的な目で捉え、そこにセンス・オブ・ワンダーを見出し、感動と驚きを持ってそこに焦点を当てて英訳を試みたように思えます。

 

 本書を書いたのはクムリポを英訳した翌年にあたります。

そのことをも考え合わせると、リリウオカラニはやはり、西洋人から誤解を受けそうな古代ハワイの信仰に関わることを書くのを、あえて避けたのではないかと私は思います。

リリウオカラニ自身の中にも、火山の噴火を、女神の怒りというような捉え方よりもっと科学的な見方をしたい気持ちが強かったのかもしれません。

 

 ともあれ、このカラーカウア不在中の出来事(第13章で詳しく語られています)、疫病の封じ込め対策とマウナロア噴火に混乱するハワイ島へ自ら足を運び人々とともにある王族という姿勢を貫いたリリウオカラニとルース王女やリケリケ王女たちの行動は、ハワイ王国の国民(ハワイ人白人を問わず)に感動を与え、国民からひろく敬愛を持って君主として受け入れられる出来事となったそうです。

リリウオカラニにとってそれは何より大切なことだったのだと思います。