古代ローマの女性は、初期の王政期から共和政期へと向かう時代の中で、家父長制下での隷属から解放に向けて地位の変化があった。帝国が成立し、属州からの富の流入に伴い財産を持つようになった女性は、解放され、やがては政治の舞台にも登場するようになる。そんな時代の密偵ファルコと、高貴な元老院貴族の娘、ヘレナ・ユスティナの物語。

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以下、メモ

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ブリタニア、ロンディニウム AD75年8月

 

p15

フラフィウス・ヒラリスがトラブルから逃げるのを見たことがない。この男が軍務についていた(俺がいた第二アウグスタ軍団の二十年先輩だ)と思うだけで不思議だ。おまけに、当時の侵略軍として現地人との実際的な交渉に忙しかったはずだ。だがその後の行政官僚としての三十年間がこの男をたぐい稀な、現実離れした、不思議人間にした。” 規則を守る公務員 ” という人種だ。もっと稀なことには、この辺境の地で無為に甘んじて澱むのではなく、規則をうまく作動させる方法をマスターした。ヒラリスは有能だ。みんながそう言う。

p38

ヘレナは大好きな籐椅子に腰かけている。織物のベルトの上で両手を組んで、小さな足台に足をのせている姿は、従順な妻の彫刻モデルみたいだ。だが、おれにはわかっている。ヘレナ・ユスティナは背が高く、優美で、落ち着いている。あらゆる分野にわたって巻物を読んでおり世界情勢をしっかり把握している。貴族の子どもたちを産み、教育するために生まれてきたんだが、おれの子どもに文化と良識を教えている。そして、掌のうえでおれを踊らせている。

p209

「きみはいつだって厄介だった」

「あんただって・・・・・・」

「なんだ?」

「いい――今度ふたりきりになったときに言う」狙い通り、ヘレナは怒りで燃えたぎっている。「さあ、行って、あんた」と敵意をむきだしにして、クロリス(女剣闘士・アマゾニア)が言う。「この人をあんまり苛めないでね、ヘレナ。男ってのはじぶんの息子の向かうほうにいかざるをえないもんだから」

 このときヘレナ・ユスティナが最高傑作をやってのけた。通りに立って、にっこり笑って言った。「もちろん、おっしゃるとおりだわ」あくまで礼儀正しい。育ちの良さの力を見せつけている。「だからこの人、わたくしのところに来たの」

p245

アエリア・カミッラは賢明な女だ。礼儀正しい振舞から、堅苦しいように思われがちだが、それは見せかけにすぎないとおれは前から思っていた。なんといってもヘレナの父親デキムスの妹だ。ヘレナの父親はおれの気に入りの男だが、あの人の慎み深さもうしろに鋭い知性を隠している。一方、おれの家族のなかで育ったマイアはもっと粗野な世渡り術を身に付けている。詮索、愚弄、非難・・・・わめきちらして、最後には、おなじみの、ぷいっと出ていくってやつだ。

p288

ポピリウスは非番の弁護士を地でいっている。嬉しそうに社交に熱中し、自分の依頼人がこの同じ建物で獄につながれているという事実を完全に無視していた。フロンティヌスとも、ヒツケとツギハギをめぐる論争などなかったかのように楽し気にしゃべっていた。あしたになればポピリウスはまた攻撃態勢に戻り、フロンティヌスのほうも、今夜の鄭重な主人(ホスト)はどこの誰だったかといわんばかりに、それに強硬に反撃するんだ。

p357―p359

突然自由になった熊が飛び上がり、馬にのしかかる。・・・・・戦車はそのまま暴走してアレーナの中央で展開されていた中心的な乱闘のなかにつっこんでいく。大きな黒熊が戦車を操っている。キルクスの芸みたいだ。

・・・・ペトロとおれはツギハギを捕まえてちょっと仕事をしてみて、もしフロリウスが殺されたら、まあ、しょうがない、くらいのつもりだった。ところが邪魔が入った。馭者のいない戦車がぐるっと向きを変えてこっちに突進してきた。二頭の馬は、よだれを垂らした熊が怖くてパニック状態だ。おれたちと獲物とのあいだをガタガタと走りぬけていった。ペトロが罵る。

「あの毛深いレーサーを連れてきたのはおまえだ」 おれは苦情を言った。

「あいつが戦車競走マニアだとはしらなかった」

p358

ちらっと目をやれば、可愛い娘たち(女剣闘士♡)が優秀きわまりないことが見てとれる。重さに欠ける分を訓練と剣さばきで補っている。トンと足が出て、ひらりと手が動けば、それで、まだ闘ってもいないうちに男がひとり倒れる。女たちはこだわらない。動脈を一本切り裂いて、それで相手が動けなくなれば、殺すまで闘ってそれ以上のエネルギーを無駄にすることはしない。手近な腕か脚に切りつけて、血が噴きだすと飛びすさる。近づいてくれば、どんな相手でも整然と順序だてて仕事をする。

p376

衝動的な性格のヘレナ・ユスティナだが、家族の話し合いの伝統は強く支持している。その一方で、その伝統は、その家の主婦の意見が通る様に祖先の女たちが編みだした方便だということは、ローマの主婦なら誰でも知っている。

 おれは家父長制を信じるローマの男らしく、黙ってそれについていく。

 

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「密偵ファルコ 娘に語る神話」  リンゼイ・ディヴィス(光文社)