政治には、保守とリベラルの対立があり、右と左の対立がある。しかし、右も左も立場は違えど大切にしなければならないことがある。それは合意のシステムである。この場合、代議士(国政)選挙や国会決議ということもあるが、政府機構全体に働く合意の原則というのがある。
引用
政治体において統合と呼ばれているものは、きわめて曖昧なものである。真の統合とは、すべての部分がいかに相互に対立しあっているように見えても、社会の公共善に向かって協力している、そのような調和があるからである。それはちょうど音楽において、不協和音が全体の協和に協調するのと同じである。
多元的な諸力が互いに抗争し合いながらも、それが全体としては統一をなすという、この「不協和の調和」とも呼べるような政治統合の独特な形態は、専制的秩序と鮮やかに対比される。すなわち専制とは、一方が他方をなんの抵抗も受けずに抑圧しているため一見静穏に見えるが、そこで統合と見えるものは「市民の統合ではなく、次々と埋葬される死体のそれ」なのである。ここに、モンテスキューの第二の、また最も影響力の大きかった専制政治批判が確立する。穏和な政体、もしくは「自由な国家」とは多元的権力を内に含み、それらのあいだのダイナミックな対立の過程を経て共通の利益を実現していく体制であり、他方、専制の本質はそれが権力を一元化するという点にある。社会における権力構造に着目することで、モンテスキューは、自由と専制とを明確に対比させる理論枠組みを手に入れたのである。
『哲学の歴史』6 「Ⅷ モンテスキュー」より
松永 澄夫 責任編集 中央公論新社 380~381
現在アメリカで起きている、ジョージ・フロイドさんを「白人警察官」が死亡させたの事件に対する抗議デモに、トランプ大統領が「国軍を投入する」と発言したことに、国防省長官が、「現在の状況はそのような(国軍を投入する)状況にない」と批判した。これは行政府の最高権力者に対して、軍の最高権力者が反対の意思を表明したことであり、
「すべての部分がいかに相互に対立しあっているように見えても、社会の公共善に向かって協力している」
という三権分立に忠実に習った原則的な対応である。
では、「現在の状況」とはどういうものか考えてみたい。
トランプ大統領は、拡散するデモを、「暴徒」とか「極左勢力が煽っている」として実力行使の「正当化」を主張する。もちろんデモ参加者の中には「この期に乗じて略奪を働くものがいる」のも事実でろう。またその「略奪」の被害者もいて、「沈静化」を希望するのも無理からぬことである。
たが、事件を別の角度から見た時に、多くの人々の「抗議」に込められた本質的な社会の病魔に立ち向かう姿勢が権力者に求められているのは明らかである。
ジョージ・フロイドさんの死に対する人々の「怒り」「抗議」は当然なる「良心」であるとわたしは思う。しかしフロイドさんを死に至らしめた「白人警官」のことを少し考えたい。インターネットによると、事件のきっかけはフロイドさんが「偽札」を使おうとしたとある店舗からの通報ということらしいが、本当に「偽札」を使用しようとしたのか、「偽札」とフロイドさんが知らなかったのに使おうとしたのかは定かではない。
白人警官には、疑わしい者に職務質問したり、一時拘束する権限が与えられている。しかしその「容疑」を立証し裁く権限は与えられていない。まして相手を窒息させ死に至らしめるという権限は「裁判所」の権限であり、一警察官は、司法に引き渡すまでの「権限」を有するに過ぎない。そのことは警察官として初歩的な自分の立場に対する理解であるべきで、警察官になった時に教育されていてしかるべきである。百歩譲ってたとえフロイドさんに「非」があっても、たった20ドルの「偽札」を使ったことに司法が「死刑」を与えることは全く考えられない。
しかしこの警察官は、この「越権」行為を罪とされ、第2殺人罪で逮捕起訴されることになった。
この警察官は、8分以上フロイドさんを膝で締め付けて死亡させるのであるが、この時間において、どのように思考していたのだろうか?
その思考のなかにもし、「相手が黒人だから自分が殺人罪に問われることはない」とか「黒人だからこれくらいしても許される」と考えていたならば、今日のデモはこの意識を問題にしているということである。
もうひとつ言えば、この警察官もこの事件で一生を棒に振るのである。これはこれで不幸だが、これを「自業自得」として済まさないこともまた抗議に現れていると見なければならない。黒人差別という社会の病魔は、黒人解放運動の成果として少しずつ「改善」されてはいるだろうが、潜在的には消滅しておらず、よって今回のような事件が繰り返されている。だからフロイドさんの「不幸」とともにフロイドさんを死に至らしめた白人警察官の差別の意識からおこった「不幸」をも繰り返さないために、社会が何を獲得しなければならないかをデモに参加している人々は深く認識している。
これに対して仮にもアメリカ大統領たるものが背をむけ、デモを「暴徒」呼ばわりしている。これがアメリカでおこっていることである。
国防省長官の表明は、権力の乱用に対する最後の「民主主義の砦」と言ったら言い過ぎだろうか?
モンテスキューは1989年(フランス革命の100年前)に生まれ1755年に亡くなっている。意外にもルソーやヴォルテールのようなフランス革命の思想的背景を築いた思想家より2世代ぐらい前を生きた。彼の没した1755年は、まだフランスブルボン王朝が最後の輝きを放っていた絶対専制君主の時代で、彼の思想はいわば時代の「反逆児」であった。彼の著作が盛んに読まれ、研究されたのはフランス革命やアメリカ独立以降で、その思想は、アメリカ第3代大統領で合衆国憲法の起草者ジェファーソンに大きな影響を与えている。
政治体において統合と呼ばれているものは、きわめて曖昧なものである。真の統合とは、すべての部分がいかに相互に対立しあっているように見えても、社会の公共善に向かって協力している、そのような調和があるからである。
、この「不協和の調和」とも呼べるような政治統合の独特な形態は、専制的秩序と鮮やかに対比される。すなわち専制とは、一方が他方をなんの抵抗も受けずに抑圧しているため一見静穏に見えるが、そこで統合と見えるものは「市民の統合ではなく、次々と埋葬される死体のそれ」なのである。
国の中で意見が対立しても、(対立しあっているように見えても、) 人種差別を克服する社会の公共善に向かって協力するような姿勢を大統領が見せるべきである。国防省長官や歴代大統領のトランプ批判は、多元的な諸力が互いに抗争し合いながらも、それが全体としては統一をなすということを権力者が主導せねばならないという意識である。
一方日本でも、「検察庁法改正案」に対する「反対」の意見が相次ぎ、SNSなどで「反対」の投稿が膨れ上がったが、よく考えてみれば、これは「賛成」=「右」「保守」、「反対」=「左」「リベラル」という対立ではない。確かに国会議事堂の前で実際に安倍政権の政策を批判している人々もいるが、SNSに投稿した人々の多くは、「検察庁法改正案反対」といっているのであって、同時に「辺野古埋立て反対」とか「オスプレイ配備反対」あるいは「憲法改正反対」などと安倍政権の「保守的な政策」までも「反対」といっているのではない、むしろこういう安倍政権の政策に対して潜在的、心情的に「賛成」している人も含まれていることに目を向けねばならない。
それは結局民主主義の合意の原則に反している、という意識であって、三権分立の原則を逸脱するからである。
モンテスキューの三権分立論がすべて正しいとはいわないし、現実の世界では各国の三権分立のあり方は必ずしも同じ形態ではない。しかし権力の乱用や、専制政治を生まないために、モンテスキューの投げかけた視座はとても大切なことであるという認識が、この200年支持されてきたということで、民主主義の今日の到達点を示すものである。
政治的には様々な対立、意見の違いがあるのは当たり前のことで、しかしその差異を前提として「合意」を作る努力が権力者に求められる。この合意の「不文律」自体を、権力者の恣意で勝手に歪められることへの批判が、SNSの投稿となって現れたのである。
検察庁OBによる、「検察庁法改正案反対」の意見書は、アメリカ歴代大統領の「トランプ」批判と同じように、かつて権力中枢を担ったものとしての責任を感じ、いわば「民主主義の後退への警告」であって、黒川氏本人の「脇の甘さ」でこの問題が収束したわけではない。この問題における安倍政権の採った政治主導は、民主主義に対する破壊行為であって、これは「左」からいっているのではない。むしろ、「検察庁法改正案反対」を批判する論客たちは、この問題を「賛成」=「右」「保守」、「反対」=「左」「リベラル」という構図に持ち込んで論点を歪曲し、反対者に「左」の烙印を押そうとする。それはさながらトランプが黒人差別への怒りのデモを「暴徒」「極左」として「軍隊で鎮圧する正当性」を捏造することと同じで、軍隊の投入は、
すなわち専制とは、一方が他方をなんの抵抗も受けずに抑圧しているため一見静穏に見えるが、そこで統合と見えるものは「市民の統合ではなく、次々と埋葬される死体のそれ」なのである。
という結果を導くものである。
もうひとつ、成人にすべて、職業、学歴、出身に関係なく選挙権が与えられているのは、すべての有権者の多様性の集約の上に政治が実現されるというシステムが有権者の「総意」を最も尊重するという民主主義の大原則で、たとえば政治に無関心であまり詳しく知らない人が「候補者の顔の好み」だけで投票しても、それは有効である。そういうことが含まれていても大部分の人は、それなりに政治について考えて投票するという庶民の意識の高さを前提として、極端な結果にならず「中和」されるといことが期待されている。
SNSで、ある人気歌手(わたしはこの歌手をほとんど知らない)が、「検察庁法改正案反対」と投稿したことに対して、「歌手は政治的な発言はするな」とか「歌手だから政治の世界を知らない」などの批判投稿があったことは悲しむべきことである。誰にでも「一票がある」という原則から言えば、そうではなくて「わたしは検察庁改正法案に賛成」と述べて、その理由を述べればよい。「あなたが反対なのはあなたが知識がない(馬鹿だ)からと人を傷つけている」のとなんらかわりない。彼女の発言の責任は「一部のファンを失う」ことで十分果していて、決して「無責任」はない。
権力者ではない一般の人が、一般の人に発言を押さえ込まれるというのは、一般人による一般人の「言論封殺」である。1930年代にドイツの10代の若者は、こぞって「ヒットラーユーゲント」に入ったが、それはナチスへの支持の確信を伴うことなく、「周りがみんな入っている」「自分も入らないと自分が孤立する」という意識に引きづられてのことで、有権者としての「主体性」「独自性」より「大衆迎合」が上回ってしまうということである。こういう世情はファシズムの前兆である。自分の意見を自由に言えるという単純な状況こそ民主主義の前提なのである。
少し本題から外れるが、企業向けのコロナ対策である「持続化給付金事業」をほとんど経営実体のない法人が769億円で落札し、すぐさま「電通」に749億円で下請けまる投げされたことにつき、野党は差額「20億円」を「中抜き」として政府を批判したが、この件に関連して
引用
国は持続化給付金事業を電通と直接契約すれば良かったのではないかという指摘に対し、梶山弘志経済産業相は三日の衆院経済産業委員会で「(直接契約すると)電通の財務会計上の処理が複雑化する」と反論した。政府が、電通との間に一般社団法人サービスデザイン推進協議会を挟む「電通隠し」を正当化した格好だ。