自然哲学 ブレイタイム 再掲 (2019年8月記事一部改)  | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 シアノバクテリアに限らず、種の派生と発展は、多種を餌として食らう結果として多種を体内に取り込み、自種の遺伝子に革新をもたらすという事が太古からあったという事だ。

 が、よく考えてみれば、わたしたち人間の身体には、多くの微生物が含まれている。これはこれらの微生物が好き勝手にわたしたちの身体に居座っているのではない。彼らは受け入れてもらえない人体の外の代わりに、人体に住家を求め、そして人間の遺伝子も、「それならば人体に受け入れてやるから、われわれの健康に役に立つ機能を果してくれ」と受け入れ、共存しているのである。人間は人間の細胞自身よりはるかに多い微生物を体内に「飼育」していて、実にその微生物なしに生きてはいけないような仕組みになっている。

 わたしたちが「健康のためにコラーゲン」を摂取するとは「体に良い」という理解ではなくて、「体内微生物を飼育し続けるために」と言う意味もあって、「昆虫」や「ビールス」を「嫌悪」するわたしたちの主観は、実に自己否定である。雑菌やカビも、その亜種としてはわたしたちの体内にあってわたしたちの身体を保持する「体内生物」は、わたしたちの細胞よりずっと多い100兆個がわたしたちの体内で生きているのです。

 「食する」「食される」という事を媒介として、最初は、シアノバクテリアのように同先祖の単細胞生物を食らい、また食われることによって「葉緑体」を遺伝子化しいて、いわば多種の身体をのっとって「植物」の先祖となり、地球の「無酸素状態」を解消して、次の代の生命のために、それまでの生命を絶滅させる原因となったように、残酷に見える「種の発展」は「次の発展」のために「やもうえない」過程でもあると考えられる。

 

 微生物による「感染症」とか表現される時に、わたしたちは、わたしたちの体内に「微生物」が存在せず、「微生物が入り込んで病気になる」というイメージを持つが、実は違う。「身体に悪さをしない微生物」を飼育しているから、そしてかつて「悪さをした微生物の能力」を活かすように発展してわたしたちの体は進化してきたからこそ「病気にならない」わけであるし、そういう微生物も最初は人間にとっての脅威だったが、それを取り込むように進化を果す生命のたくましさこそ「人間という種の成立の原動力」でもあった、その結果が「人間」というの生命進化の「開花」である。もしすでに取り込んだこれらの微生物が抵抗できない新たな微生物が身体に入ってきたら、これらの抵抗微生物を応援するために、「治療」方法を考え、「薬」や「食物」を摂取するのである。

 

 「体に良いものを食べましょう」という時に、「微生物が不足していると訴えているもの」を補いましょうという意味がある。

 

 わたしは、健康食品を宣伝する文言や、「体バランス」とかいう宣伝を見るにつけ、いつも思うのは、普通の人が「嫌悪する」ような「雑菌」とか「ビールス」が「悪しき存在ではない」ということである。それを取り込んだ人間のシステム上において、それらはけっして「悪しき存在」ではなく「人間の遺伝子がそれらと共存する人間の身体」を獲得し、さらに強く人間を複製する生存への「力」を補うようにできている。

 

 個別人間は、ひとつの意識だが、個別の個体は「ひとつの生命」ではない。人間の個体維持のために、人間は人間以外の生命を利用するために、自己の体に、自己意識とは別に他者が「生きようとする意志」を活用し、内包している。これが人間の強さである。

 

  ここのところの理解が「自然哲学」なのである。

 

 他者との生存闘争が、「食うか食われるか」の他者否定として理解されている間は、本当の生命の生き生きとしたしたたかな自己変革の偉大さを知らないという事であろう。遺伝子の学習能力は、最初自分の生命を脅かす他者を否定しようとするが、他者が強者であれば、その強みをこちらに取り込んで自分がもっと強くなることに利用しようとするところであり、この生命の偉大な学習能力は、将来よりてこずる「敵」に対する「そなえ」を準備する。生命とは「発展しきったまま止まっている」のでは滅びるまである。このことを否定しては、実は人間のような優れた生命が形成されてきた本当の「推進力」に思いが至っていないともいえる。

 

 コロナの強さが克服される過程で、「将来のコロナ以上の恐怖」を克服する準備ができるのであろう。だから、この過程でおこる「不幸」を悲しみながら、この過程を越えて行く人間の「たくましさ」を受け止めるという逆説的な理解が必要であろうと考えます。

 

 コロナの犠牲になった命は、将来の人間の「希望」を背負って旅立ったという尊厳において、彼らが「命」を全うしたという思いを持ってこそ、彼らの犠牲は燦然と輝く。

 

 やはりわたしの考え方は、受け入れられない「ひんしゅく」でしょうか?