ひんしゅくをかう議論 哲学者として述べるべきこと | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 ウィルスに「理性」はあるであろうか?

 

 多くの人にとってそれはばかげた理屈である。(と思われる)

 

 人間は、「他の種」を愛(め)でる。ゆえに、「理性」的である。

 

 犬や猫をかわいがるのは、「生命」という素晴らしきアイデンティティーとしての「同一性」を他の種に認めているからである。 


 他の種に備わる「生への葛藤」は、人間が「他の種」に依存しているという事実を人間の「理性」が理解してるから導かれるのである。

 

 ところで、「生への葛藤」とは、理性以前の「自己保存」の欲求である。

 

 単に、「生存したい」とはウィルスにもあるDNA、あるいはRNAに備わった宿命である。

 

 「複製したい」という欲求は、人間に宿命付けられた、しかし自然由来の感覚であり、これに「理性」さえも抗することはできない。だれもがまず「自己存在」こそ第1義的である。

 

 だが、「できれば他の種と共存したい」と知性が要求することが、人間をもっとも「理性的」にしている根拠でもある。

 

 犬や猫が、人間を滅ぼす元凶の「ウィルス」をとめられず、絶え間なく増強するとなれば、人間は「犬猫」の生命を絶つためにあらゆる努力をするだろう。

 

 それは、他の種を撲滅することで自己保存を実現できると思う人間の限定的な主観がそうさせるのだ。

 

 なぜ「コロナウィルス」との闘いに人間が勝利する必要があるかというと、自己保存のために他の種の細胞に宿って、他種の細胞を蝕むことでしか生きようとしない「遺伝子」のあり方は、最終的に宿す対象たる他種の生命を滅ぼすことで、自己もまた宿す対象を滅ぼすからである。それが理解できないまま一方的に増殖する生命にとっての「愚行」をウィルスは理解せず、「生きるためには何でも利用する」という意味で、ウィルスに「理性がある」とはいいがたい。

 

 人間は生存の限界を知っていて、他の種との「共存」はウィルスにはありえない自己否定の克服であり、それが人間に与えられた「理性」の尊さであると考えるべきである。

 

 この尊さがウィルスにはない。

 

 だから、地球の生命にとって、人間の理性の勝利が期待されるのである。

 

  ウィルスの感染によって迎える個人としての「死の恐怖」とは、個体が滅びる恐怖でありながら、あらゆる「生命」が自己存在を非実現な世界に落としこめる「恐怖」と同一のもと理解されねばならない。

 

 わたしたちが見ている世界の美しさが失われるという「恐怖」を感じた時、わたしたちが何をすべきか見えてくる。

 

 「感染」による個体的な死への恐怖は、同時に個体としての死が人間の意識がこの世界の美しいありようを観念できなくなる、という恐怖として捉えられねばならない。

 

 かれらウィルスも、自己保存のために人間や動物の細胞に「抵抗できない」遺伝子配列を再生産し続ける。だから個体としての自己をもっとも大切にしようとする自然由来の、生存への熱望は、ある意味では人間に負けるともおとらない。

 

 では生への葛藤という意味で、人間と同一性をもつ彼らの感性たる「生への執着」と、他の生命と共生しようとする人間の「生への執着」とどこが違うかというと、他の生命との共存なくして人間もまた「再生しない」という理性的判断を、ウィルスは持っていないということであり、人間は人間という種の成功だけで人間は生き延びないという事を理解しうる「理性的存在である」という事である。よって自然界の多様な生命のために、人間はコロナウィルスに勝利しなければならない「使命」を帯びている。

 

 おわり