哲学総論 つれづれ 44   | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 引用

 

 本質の規定を本質的なものだと考えれば、それが前提された主語と述語とされるとき、規定が本質的であることからして、主語は「すべての○○」という形をとる。そのようにして成立する命題が普遍的な思考法則といわれるものである。たとえば、同一律は、「すべてのものは自分と同一である」という形であらわすと、「AはAであると同時に非Aであることはひありえない」となる。この命題は真の思考法則などではなく、抽象的・分析的知識の法則にすぎない。命題の形式がすでに同一律に矛盾している。命題は主語と述語の区別を想定しているのに、同一律は、命題の形式が要求するものを実行しないのだから、むしろ同一律を克服するものは、同一律に対立するものをを法則とする、他のさまざまな思考法則である。

 

 《中略》 

 

 [口頭説明] 同一性とは、一見すると、以前に「存在」として登場したものの再来かとも見えるが、直接の規定性が克服されたところにうまれるのが同一性で、いまあるのはそういう同一性としての存在です。

 

 『論理学』   ヘーゲル 著   長谷川 宏 訳  作品社 262~263

 

 

 「海」は「海」であり、非「海」ではありえない、というのは、「海」なる存在を捉えている「五感」とその「海」から「塩」を抽出していたり、「魚介類」を得て「食」を満たしている「人間にとっての」「海」であって極めて「観念的」なものである。

 わたしは、当ブログの別の連載記事、「神々の意思 自然哲学 そろそろまとめ」というシリーズをみなさんに問うているが、たとえば「海」とはという同一律は、「食の宝庫」ではなく、「塩化ナトリウム」とい意味で「元素的」同一律であるし、地球と太陽の距離が、唯一地球に「水」から「水蒸気」「氷」という「固体」「液体」「気体」の円環を実現して「生命」を育(はぐ)くんでいる、と指摘していてきた。

 

 「海」は「海」であり、非「海」ではありえないという理解は、ヘーゲルの言う通り思考の錯誤と言わねばなるまい。

 

 「AはAであると同時に非Aであることはありえない」となる。この命題は真の思考法則などではなく、抽象的・分析的知識の法則にすぎない。命題の形式がすでに同一律に矛盾している。命題は主語と述語の区別を想定しているのに、同一律は、命題の形式が要求するも野を実行しないのだから、むしろ同一律を克服するものは、同一律に対立するものをを法則とする、他のさまざまな思考法則である。

 

 「海」は「NACLを含む液体である」とか、原子「NA」「CL」からなる分子であるとか「液体」であるとか、とこういう判断と理解は,地球上では可能だが、海王星にもおそらくこういう「原子」らしきものがあるが「液体」ではありえない。そこには原子が「流体」になる「気温」が訪れることはないのである。だから人類が仮に「海王星」にいても、「海」を「海」と名付けることもないし、「液体」を理解することもない。

 地球に対象を理解する「精神」という人間の「意識」が芽生えるためには、そういう自然の変化が必要である。

 

 わたしは、自身のブログ記事「神々の意志 自然哲学」で、地球環境の長期的な変化について記述しているけれども、この変化が生命の必須条件でもあると考えている。物質が生き生きと変化するためには、太陽との距離、四季の存在が必要である。この物質の多様性を保障した上ではじめて物質は生命となる。生命が「心」という意識をもち、自己意識が「精神」となると、自分たちの出身たる物質の運動に名前をつけ。理解をする。

 

 海は「海」と名付けられる「うみ」と発音されるのは、主観に属する。そうでなくてもいいのだ。「sea」である事でもよい。「海」は「海」であるというヘーゲルの指摘するような貧相な「理解」は、「海」は「液体」であるという理解は、地球上に物質が「液体」で存在することができるという条件でしかありえない判断である。

 

 精神が物質を名付ける際に。見ている風景を捉える「感性」が媒介するが、ここに言語が「本質を反映しない」恣意的なものであることが示されている。

 

 ヘーゲルは「気がついている」のだけれど、そこから進まないのは、彼が「キリスト教」の束縛から自立する意志を持ちながら、自立できていない限界を示している。

 

 ここから先は実は、ヴィトゲンシュタインを読まねばならないのだが、わたしは今「勉強中」で、まだ記事にはできない。

 

 ひとつ指摘しておくと、

 

 結局「海は海である」という同一律は、何も語っていない文章である。

 

 という事である。

 

つづく