哲学総論 つれづれ 43 | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 久しぶりのヘーゲル『論理学』の読み合わせである。といってもわたしの残りの人生の時間から考えても急がねばなりません。ヘーゲルの『自然哲学』『精神哲学』『精神現象学』についても連載記事にしたいけれどこの『論理学』の連載「哲学総論 つれづれ」にはもう1年以上費やしているから、とても目標達成とはなりそうもありません。

 とりあえずつづけます。

 

 引用

 

 本質は自分のうちに光を当てる純粋な反省であり、その自分との関係は直接的な関係ではなく、反省された関係であって、自己との同一性である。

 《注釈》 同一性に固執し、差異を捨象するとき、自己同一性は形式的・分析的な同一性となる。いいかえれば、抽象なるものが形式的な同一性を設定するものであり、内容のある具体的なものを単純な形式に転化するものである。その際、具体的なものに備わるさまざまな要素が、(いわゆる分析によって)部分的に除去されて、一要素だけがとりだされてくるか、それとも差異をとりのぞくことによってさまざまな要素がひとつにまとめあげられるかの、二つのやりかたが考えられるが。

 同一性が、命題の主語たる絶対者と結びつくと、「絶対者は自己と同一の存在である」という命題が得られる。この命題は十分にただしいが、真意がとらえられてるかどうかははっきりしない。少なくともその表現には、不十分なところがある。いわれている同一性が、本質の他の規定と対立する抽象的・分析的なのか、それとも、具体的な内実をもつ同一性なのかはっきりしないのだ。後者の場合、のちに示されるように、同一性はまず「根拠」としてあらわれ、さらに高次の真理としては「概念」としてあらわれるのであるが。ちなみに、「絶対」ということばは、「抽象」ということば以上の意味を持たないことが多い。たとえば「絶対」空間や「絶対」時間は、抽象的な空間や抽象的な時間を越える意味をもたない。

 

 ヘーゲル 著  『論理学』  長谷川 宏 訳  作品社 261~262頁

 

 本質は自分のうちに光を当てる純粋な反省(本質を証明するために自己に対する否定の契機を自己のうちに取り込む)であり、その自分との関係は直接的な関係ではなく、反省された(否定を媒介した)関係であって、自己との同一性である。(同一性を単に主張するのではなく同一性の否定を克服した同一性である)

 《注釈》 同一性に固執し、差異を捨象するとき、自己同一性は形式的・分析的な同一性となる。(AはAであるとだけいう時は、AはAでない、という否定の過程を経ずに述べられる抽象に過ぎない。これが「同一性に固執する」態度である。)いいかえれば、抽象なるものが形式的な同一性を設定するものであり、内容のある具体的なものを単純な形式に転化するものである。その際、具体的なものに備わるさまざまな要素が、(いわゆる分析によって)部分的に除去されて、一要素だけがとりだされてくるか、それとも差異をとりのぞくことによってさまざまな要素がひとつにまとめあげられるかの、二つのやりかたが考えられるが。

 同一性が、命題の主語たる絶対者と結びつくと、「絶対者は自己と同一の存在である」(ドイツ観念論を準備するスピノザ、ライプニッツ、ヴォルフなどはこの同一性を前提としていて、内容の分析はしても内容を主語に復帰させる過程の弁証法が不足している。述語を本質としたプラトンをもう一度主語に本質を復帰させるために複雑怪奇な文章を駆使したアリストテレスの苦悩は、同一性に内実を与えようとするものであり、その困難は、ヘーゲルにおいて「否定の否定」という弁証法で一旦克服されるかに見える。)という命題が得られる。この命題は十分にただしいが、真意がとらえられてるかどうかははっきりしない。少なくともその表現には、不十分なところがある。いわれている同一性が、本質の他の規定と対立する抽象的・分析的なのか、それとも、具体的な内実をもつ同一性なのかはっきりしないのだ。後者の場合、のちに示されるように、同一性はまず「根拠」としてあらわれ、さらに高次の真理としては「概念」(自己の「否定の否定」を経た本質)としてあらわれるのであるが。ちなみに、「絶対」ということばは、「抽象」ということば以上の意味を持たないことが多い。たとえば「絶対」空間や「絶対」時間は、抽象的な空間や抽象的な時間を越える意味をもたない。

 

 赤字はわたしの補筆

 

 哲学などを鍛錬していると、時に「気が遠くなる」ほどの「放心状態」に陥ることがあるけれども、この「本質論」というのもそのたぐいで、「絶対者」とは雲をつかむような「抽象」を相手にしていて、宇宙のどこにでもある存在だと実感するが、無色透明の「なにものか」でしかない。よって宗教は「ずるい」わけだ。実態の観念できない「絶対者」を「根拠」の原因にまつりあげるのは簡単である。

 哲学では「絶対者」という言葉を使用しても、それを「神」とすぐに呼ばない。目標が宗教的「絶対」ではないから、「抽象」と区別される「絶対」を簡単に到達できないことを知っている。

 ゆえにヘーゲルは「同一哲学」を批判し、とくにフィヒテを目の仇にした。カントにも相当の不満があったのだが、カントは限りなく不可知論で、プラトンの「述語回帰」に近く、主語復権を目指すのがヘーゲルの目標である。

 しかし述語を伴わない主語は無内容で、宗教の「神」「主」と変わらない。よって述語を本質としない主語は、述語を含む主体でなければならない。ここが叙述を難解にするのである。

 引用文中の「根拠」という規定が、実は「概念」へのはしわたしであり、この用語を、『論理学』構成の三段階の2番目(第2篇)に駆使するヘーゲルの「苦肉の策」を見てとるとき、ヘーゲルのさまざまな難点を棚上げして、拍手を送りたい。

 基本的なことを再度述べるが、「否定の否定」は「肯定」に戻るのではなく、否定を内に取り込んだ「本質」である。「否定」「契機」「反省」の語はヘーゲル読解の重要キーワードだが、その語はわたしたちが日常使っている「反省する」などの口語とは全く位相が違うのであって、この語の意味はヘーゲルを読み続ける限り「発展」していくものである。

 

 「本質」とは第1篇における「存在」の延長だが、もはやすでに抽象的な単なる「存在」ではない。

 

 という読み方が問われるのである。

 

 たとえば、第1篇の存在論における「質」と「量」が対立するが、「社会的富の総体が膨大な商品」としてあらわれるけれど、商品の価値は「」としてのその商品の目的という意味があって、「包丁」という商品は調理における切断の目的で「使用価値」がある。が包丁という商品が売り物として貨幣と交換可能で、この場合調理における切断の使用価値に注目されておらず、どれくらいの「」の貨幣のと交換されるかが注目されていてこの場合その商品の「量」としての側面たる「交換価値」が注目されているのである。(『資本論』第1巻「価値形態論」)

 だから「存在」(商品)は存在論の弁証法を経由して「反省されて」はじめてその「本質」をあらわすのである。ただし「商品」の運動は、この存在論だけで解明されない。よって商品の概念に至る過程として本質論を経なければならない。

 

 余談

 

 「哲学総論 つれづれ 41」までは、ヘーゲルの『論理学』(小論理学)の第1篇を扱っているが、ここでヘーゲルの語る「質」「量」「限度量」への発展過程が「使用価値」「交換価値」「利潤率低下(限界)」に対応していると示す時に、マルクスがいかにヘーゲルを継承しているかが理解される。

 「資本」が労働者を搾取するという科学的、実体的、エンゲルス的理解は、「反省の契機」を経ない一面的理解で、そういう哲学的思考を欠いた議論にわたしは興味はないし、マルクスもそうであったであろう。のちの共産主義政治家によって定式化されたマルクス=エンゲルスの間にあるこの「=」等価記号がけしからんのである。

 

 つづく