映画「グース」に認めた
家族の絆を語ったけれど、母は、家族の要(かなめ)で、要は父ではありません。
母は、繋ぎの要です。
「繋ぎの要」というのは、一昔前の自己犠牲の美学である「良妻賢母」の思想ではありません。こんな言葉は「糞くらえです」。
女性差別ということは、わたしの若いころ「新左翼」が問題にしていたが、それに対する答えは、男性であることが「差別的」であるのではなくて、我々男性はある錯覚をしており「男性」が「女性」にまさる存在だと不断に意識に植えつけられているが、それは違うということに尽きる。
「グース」における家族の絆は、最初からあったのではなく、時間が作り出した。
しかし、結局。女性たる「母」の存在抜きに語れない。エイミーが母を失ったと言う前提が描かれていなければ、この映画の意義は半減する。後半の「おばあさんの家」にエイミーと父が「泊めて」もらう場面で、親子は初めて「母」=「妻」を語る。
男性存在は、女性の存在があって初めて「男」なのに、「男気」とか、「男からには」とか、性の優越性に酔いしれて、自分を見失う傾向がある。
エイミーが示した「母」の責任のまっとうに対して、主導的でなく、サポートに徹する父の「男気」を押さえ、娘をヒロインに仕立てる態度こそ、男の「優しさ」です。本来強さは「女」にある。
なぜなら、男と女が惹かれあった結果、新たな生命を誕生させるために、個体を内部に維持するのは「母」であるからです。
フィンランドの叙事詩「カレワラ」の冒頭で、「ワイナミッショネン」を出産するために、700年、お産の痛みに苦労する女神「イルマタル」の苦悩が描かれている。
この世に、2番目に痛いのは、「癌」の末期症状の患者が受ける苦闘。では1番目は、「お産」の痛みだ。(特に初産)それほどの苦しみを耐えて、我慢してでも、「新たな命」をこの世に残したいとする「女性の強い意志」は男に勝てるわけがない。
むしろこれに抗するには「男」は「強く」あらねばならないは誤っており、男は「やさしく」あらねばならないが正解です。
映画「グース」の父はそうでしょう?
おわり