その罪は、法律に定義されていない。
要するに、セクハラという「罪」がないとうのは、刑法上その罪が定義されていないという事に過ぎないのである。
昭和初期には「セクシャルハラスメント」などという言葉は存在しなかった。
しかし「セクハラ」という言葉が存在しなかったことと、「セクハラ」に相当する事象が存在しなかったことが同義ではない。よって法律が現実に対して遅れを取っているという事だ。
その不備のある法体系に記述がないから「セクハラという罪はない」と言い切る人間が、常に法の不備を是正するために存在する「立法府」たる「国会」の代議士の、しかも大臣の職にある人間の口から吐かれるという事が、日本の政治の貧困を物語っている。
引用
ソクラテス
しかし、有用な思いさだめ(思いなし)とはなんであるのか。思いさだめの真なるものではないのか。
中略
ソクラテス
してみると法において志向されているのは事実あるもの(実在)の発見であるということになる。
『ミノス』 プラトン 著 向坂 寛 訳 プラトン全集 第13巻 9頁
「法において志向されているものは事実あるものの発見である」ということの意味は、法より事実が先行するということである。
立法府は、事実に則さない法律の不条理を是正するための、現状の不備を新たな法律を立てることによって、新しい「思いさだめ」を確立する義務がある。現状の法律に「セクハラという罪がない」なら、その様な現状の法律が、そのままでいいのか、改めるべきかを問い直すのが国会議員の責任であって、現状の法律に書いてないから、「公務員のセクハラがあっても犯罪ではない」という主張をする麻生太郎とは、自分の役割を理解していない「ロクデナシ」で、こういうのを当選させているわたしたちも「ロクデナシ」であるということだ。
法が絶対ではなく、法を決定する民意と、人間の、より幸福を求める意志が絶対なのである。法はその人間の未来を切り開くための掟であって、人間の未来を疎外する固定観念を表すものではない。
「法において志向されているものは事実あるものの発見である」
何のために人間が「法律」を作ったのかを考えればわかる。
おわり