イエス・キリストに対する信仰と、キリスト教教義への帰依というのは同一の精神ではない。イエスは歴史上の人物として不滅であるが、キリスト教という宗教は、他宗教に寛容ではなくむしろ排他的な歴史を刻んで他者の命を軽んじてきた。
本来、ヨーロッパでは18世紀には地球が球形で、一周可能で、少なからぬ人種や民族で構成されている惑星で、いわば命の宝庫であることが意識されていた。だから中世キリスト教の教えの根拠は揺らいでいたが、それに代わる思想的な軸という物が獲得されないまま近代は、デカルト哲学と科学の発展を伴ないながら、精神としては啓蒙からデモクラシーへと徐々に移って行く。
では「死者のためのミサ曲」というキリスト教的精神は、個別宗教の音楽として過去のものになったのか?
断じて違う。
モーツァルトのKV-626『レクイエム』に響く音の共鳴と、和声、フーガ(対位法)、変奏を支える精神は、中世的野蛮なキリスト教団とはなんらかかわりない崇高のうちにうち融けている。これはキリスト教の勝利ではなくキリスト教という邪道に対する人間精神の勝利であり、本来キリスト教の教えがすばらしいからこのような音楽ができたのではない。音楽の僕たる天才が、「死者を悼む」ということに心を尽くして出来上がった音楽である。
息吹を吹き込まれた「レクイエム」は、人類の「レクイエム」になった。
第6曲 Confutatis の弱音部における。ピアノ伴奏譜の分散和声の進行は、ピアノ幻想曲ハ短調の実験が、実験でない芸術としての華を咲かせている。
わたしは、今後この「レクイエム」についてもっと語ることになるでしょう。
いつかまた