短調の序奏の荘厳さに対比して、弦セクションによる軽快な第1主題は、大変お茶目です。
雰囲気的な類似をあえてこじつけるとすれば、ベートーベンの『レオノーレ序曲第3番』の序奏の後の主題で。上昇して下降する弦には太い響きが求められる。
こじつけついでに、モーツァルトの『後宮からの脱走』序曲も、雰囲気的には上昇と下降の流れで似ているけれども、こちらのオペラは舞台がトルコで、中東的でトルコ的に聴かせるためティンパニとシンバルが活躍する。
だがモーツァルトとハイドンの違いは、主調への回帰がハイドンは早くて、モーツァルトは調性の破壊を試みながらやり切れない時代の限界を背負った。モーツァルトの転調の真骨頂は、実験的なピアノのための『幻想曲』ハ短調KV-475に顕著に確認できるが、モーツァルトの美学的完成を聴くとすれば、『レクイエム』ニ短調KV626の「ラクリモーサ」の和声進行の神々しさに認めなければならない。
ハイドンに戻って、第2楽章にテーマに見せる「イギリス国歌」片鱗の意味がよくわからない。一節にロンドンの聴衆を喜ばせるためとも?これについては後述します。
第3楽章メヌエットは意外にも素早い転調と主調への復帰の際限のない繰り返しで、少し退屈である。
第4楽章は、三連符使いの妙味を見せる。ハイドンは、転調の点で、モーツァルトのような調性破壊者ではないが、多様なリズム使用の「引き出し」があって楽しい。ベートーベンはハイドンを発展させて、強拍と弱伯の位置ずらしという事を確立する。(第8交響曲のフィナーレを聴くとわかる)この手法はシューマンの第2交響曲のフィナーレのコーダで、三連符と2拍の共存によるリズムのズレをもたらし、やがてブラームスに受け継がれる。
多作家ハイドンは、一曲の交響曲作曲に当たって、その成功不成功をあまり気にしていなかった(だめなら次を書けばよい)と思われ、98番第4楽章の終結は、ソロバイオリンあり、通奏低音(チェンバロ)ありで、バッハがあと50年生きていたらこういう作品になったかなということが思い浮かぶのです。
さて、後述するといっておいた事について、
イギリス人というのは、特定の作曲家への愛着があって、ヘンデル愛は、ヘンデルが「本物のイタリアオペラ」をロンドンに持ち込んでくれたという事に対する尊敬である。オペラ『リナルド』はそれだけ衝撃的であったのです。
ハイドン愛とは、交響楽を確立してくれたことへの感謝である。その延長にベートーベン愛があり、ベートーベンはイギリス国歌『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78を作曲した。
ところが以降のイギリス人の愛着で注目されるのは、何といっても「シベリウス愛」で、おそらくこれは地形や気候というフィンランドとの自然環境的類似性からくる愛着であろうと思う。エルガーのチェロ協奏曲に認められる「北欧的」なるものは実は「スコットランド的」なるものである。あるいはエミリー・ブロンテの『嵐が丘』のヒース・クリフ(荒野)のイメージであろうか。
わたしがハイドンのザロモンセットの記事を書く際に参考にしている、指揮者サー・コリン・ディヴィスもシベリウス全集を2回録音している(1回目のボストン交響楽団との4番はすばらしい)し、古くはサー・ジョン・バルビローリもシベリウスが得意で、サー・サイモン・ラトルもベルリンフィルと全集を作製している。
ハイドンは、シベリウスや『嵐が丘』のような「深刻」かつ「野生的」ではない。気軽に聴ける良さをモットーとする。がハイドンを聴くには、周辺のバッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーベンをよく聴きこんでいないと面白くない。
つづく