まだまだ毒吐き再び | 幸せ実現日記→緊急避難

幸せ実現日記→緊急避難

ついこないだまでのネガテイブな思考が創り出してきた過去に、ありがとう。さようなら。
これからはいいことしか起こりません!確実な目標は必ず達成するということを、これから楽しみながら体験していきます。

といいながらも、緊急避難場所。

なるほど…

このメモ機能でイラストが描けるのか…

このところ、前まで習慣化していた、タイピング練習を兼ねての、
気軽にアウトプット、ブログ投稿ができずにいます。

見られることを意識しすぎて、
いや、
よく見られることを意識しすぎて、
あるいは、
誰かを傷つけないように、
わたしの思うことはあるけれども、外には出せない、
そういう意図じゃなくても誤解してとられることも多い、
そんなこんな、
ただただ、何かをアウトプットしたいのに、
それがままならない状況に行き詰まりを感じていました。

ここ最近は、描き込みすぎない前提で、
時に長文になってしまうけども、
投稿はFBばかりになっております。

もう少し突っ込んだことは、やはり個人のブログなどにしないと、
そもそもSNSなど、他人はよほどでなければ関心の薄い人の投稿など流し読みこそしないし、よくて写真をぱっと見て何かを思う程度。

ほんの数ワードに絞って、
興味関心を惹くフレーズを抽出してトップに持ってくる、
その一言が引っ掛かれば、運よく文章を読み進めてもらえるかもしれない。

どれくらいの距離感でSNSを流しているか、
大企業広告か友人の何気ない投稿かの差はあるかもしれない。

自分以外の他人はどう思っているか知りませんが…

ここ最近のわたしは、
投稿したらしたでリアクションが気になって仕方なく、
そうはいってもほとんどの人は、
自分が他人に対して意味を持って関わっているという場合くらいしか、内容までは踏み込んで読まない。
自分以外の他人がなんかしらのメリットを感じている投稿をしていないから、
リアクションがないだけ、
あるいは結果を急ぎすぎて、タイミングがずれているだけ。

そんなところを、
出口がないままぐるぐると、
何かもっと行動しなきゃと思うけど、
ただ自分の時間を費やすブログもかなりの期間続けたけど、
わかりやすい反応はなかったこと。

さてさてと、
目先のこと、経済的なことに意識が向きすぎて、
「〇〇ねばならない」の思考が暴走、
切羽詰まった時の火事場の馬鹿力も捻りのきいたアイデアが出るチャンスではあるけども、
人生がうまく回り出すことって、
ワクワクすること(魂がそっちだと教えてくれる方向)に、根拠のない自信を持って進み続けること!だと言います。

振り返れば、
苦しくて我慢してじーっと堪えて乗り切ったことで達成した境地って、
あったかな…
習慣化までは面倒だったりしんどかったりはあっても、
それをすることが当たり前のルーティンができたら、
そのうち振り返ったら凄いことが達成してた、ようなことはあっても、
習慣化しているのでそもそも感動もなく、
また次々とタスクが増えていくのです。

ただ、
ここ最近不思議な現象があって、
今まで付き合ってきた人からは信じられないようなことでも、
自分はプロフェッショナルルートにいる方が遥かに自分が伸びるし心地よいこと。
そうじゃない人たち(いつまでも初心者を決めている人)は下へ下へ重くて、
実際の持っている能力よりマインドが重くぶら下がっている感じがする。

かつていたところは合わなくなっている、
もっというと、
お金と時間などを苦しくない程度に抑えて程々でいた人たちは、
そこらへんにとどまっているという感じで、
群れて楽しい時間に価値があるなら、
それ以上望まないんだろうな、という部分もある気がして。

自分のレベルより下の集団にいると感じたら、
へんに攻撃されないように、平均的に能力を下げてしまうところがあり、
その逆で、自分がまだそこに達していないと感じたら、いかにして最短でそこで違和感のなくなるように振る舞えるかの作戦を巧妙に考え出す。
それが楽しくて仕方なく、未来に希望を感じる。

ここ最近の、自分の内側が感じることは、
ずっと行けなかった先生の、特別レッスンに参加したい、と思っていること。

もう今日なんだけど、
その一歩は踏み出さないんだね、
状況的に充分それは許されているのに、

何度となくチャンスを逃してきたことはあって、
自信がないから選択を迷っているうちに通り過ぎていた、
チャンスの神様は本当に前髪しかない。

迷う時ほどあっという間にチャンスは遠くに逃げていき、

ちょっとちょっと…って言われるようなことでも、
無謀にチャレンジしたらステージが上がってきたという経験もある。

ただ、
そこに答えがあるのか、
そんな確信などなくて、
今、
暖かく緩やかに進み始めている軌道に、
外側のそれっぽい誘惑はさておき、
賭けてみる。

気安く外側に言えないけども、
水面下で動き始めている、
着々と、信じて突き進んできたことが、ついに実を結ぼうとしている。
もっと、オープンに自信を持って言えたらいいのに。
自分の中でそれは完全に繋がっている、

深いところでの自立のチャンス。

甘えて、
好きなことに突っ走ったら、
やっぱダメでした、
ほぅらね、言ったとおりでしょ、そろそろちゃんとしてよ。
何度も何度も言われたね、
拡大した経済観念にもう降参されている、
多分、あれだけ言ってもう無理だっていうから、
仏の顔も三度までの、数億倍は搾り取ったのだろうと思う。
これも、
どこかの時点での傷の復讐なんだろうと思う。
愛情のお試し行為を何度も繰り返した。
もう嫌だ、
操られているままに優等生を演じようとも、
どれだけ頑張ろうとも期待通りにはならない。
本当はもっと早い段階で切り捨てたらよかったのに、
相応しくないタイミングで、
外側の価値観を握りしめていたから、
目の前の存在をありのまま見ることを拒否されたから、
長く長くこの状態が続いたのだと思う。

お金を持って死ねない、
それを知ってか知らずか、
お金を出し続けても、一向に欲しい娘は手に入らない、
あるいは幼少期からもらっていた無性の愛の可能性にいつまでも親の方が依存的で、子離れしないから、問題は複雑化していく。
こちらはとばっちりを受けているだけで、
自己否定は親世代、メディア、その他の仕組まれた罠によって、必要以上に刷り込まれたのだ。

間違いなどない、
正しいとか間違っているとか、
人の数だけ意見がある。

自分の軸をどこに置いているか、

年の数以上は、実家を出てから関わってきたけども、その度に引き摺り下ろされる感覚が、こちらがクリアになるたびに増幅していき、
どう見ても気持ち悪い存在なのは、
他人に見せる、美しい親子像を演じないことで、自身の平和が保たれる。

不思議だなーって思う、
あからさまに虐待されていたら、それはネタになるけども、
外面よく立派すぎる家庭で何不自由なく育てられ、中年過ぎても甘やかされるもんだから、
それは健全に甘やかされていたなら、新しい家族と健全な愛を育んでいるだろうに、
どこか歪んだ捩れた関係は、きっと私の墓場までも、もし子孫ができたらその末代までも、ある程度仕方なく連鎖するものなんだろうと。

虐待の連鎖を私の代で止めたいと、
そのように考えてパートナーを見つけ一緒になり次世代を育むことを避けてきたつもりはないけども、
知らぬ間にもう妊娠できる生物的限界が間近に迫っている。
それに、本能的な危機感はあるけども、
考えられない。

また、ダークな内容になってしまい、
アウトプットしたものが公開できないじゃないか。
チーン。