11月21日(月)よる7時~「帰れマンデー」
静岡県でバスサンド🚌🎲
元サッカー日本代表⚽️✨
内田篤人
国宝💎久能山東照宮⛩
神秘のライトアップへ‼️💡
〜〜〜
久能山東照宮⛩
潤くんが出るわけではないですが、こちらを少しでも見られるのならうれしい😆
ライトアップとあるから、最後に夜になってから到着かな?
大好きなウッチーがゲストさんにお名前があるし😊
ふふふ
11月21日(月)よる7時~「帰れマンデー」
静岡県でバスサンド🚌🎲
元サッカー日本代表⚽️✨
内田篤人
国宝💎久能山東照宮⛩
神秘のライトアップへ‼️💡
〜〜〜
久能山東照宮⛩
潤くんが出るわけではないですが、こちらを少しでも見られるのならうれしい😆
ライトアップとあるから、最後に夜になってから到着かな?
大好きなウッチーがゲストさんにお名前があるし😊
ふふふ
令和4年11月21日(月)15時~16時15分
江田島荘
お一人様5,000円(税込)
「どうみる大河」(「どうする家康」)の楽しみ方」
徳川宗家19代徳川家広氏 特別茶話講演会開催!
江田島荘がご用意する季節のスイーツとお茶と一緒にお楽しみくださいませ。
ご予約は……………。
〜〜〜〜〜
JAL CM
4年前の今日2018年11月15日は、「今すぐ飛んで行くよ」「行こうぜ北海道」と嵐(二宮和也,櫻井翔,相葉雅紀,松本潤,大野智)が言った、JALのCMの放送が開始された日です📺
〜〜〜〜〜
[大河ドラマ出演が決まったハナコ・岡部大が撮影時の裏話を吐露。松重豊らとの会話を再現して…。
■大河ドラマに出演
2023年放送のNHK大河ドラマ『どうする家康』への出演が発表された岡部。この日は、すでに撮影が開始している同作で共演している俳優との「激レアな交友録」を明かしていく。
岡部は楽屋で相方にエピソードトークをする際、「いままでは『この前(サンシャイン)池崎さんがさ』とか『この前(ハライチの)澤部さんがさ』とか言ってたんですけど、『この前、松重豊さんがさ』とか言って」と登場人物が芸人仲間から共演中の名俳優に変わったと照れ笑いを浮かべた。
■エピソードに変化
若林が「だいぶレベルアップですよ、それは」と指摘すると、岡部は「『この前、大森南朋さんが』とか言うと(相方から)『誰の話ししてんだよ』ってツッコまれまくるというか。『入ってこない、エピソードトーク入ってこない』って」と相方の反応を回顧。
松重豊、大森南朋、山田裕貴ら人気俳優と撮影現場が一緒で、待ち時間には「2時間ぐらい小話する」間柄になったと嬉しそうに語った。
■松重との会話に…
さらに岡部が「松重さんが『なんか、おいしい店知らないの?』みたいな感じで言ってくれたりとか…」と松重との会話を再現。
松重といえばグルメドラマの金字塔『孤独のグルメ』(テレビ東京系)で主演しているだけに、このやり取りに若林は「うわぁ、すげー会話だなそれ」と興奮。
「『ここロケで行っておいしかったです』とか言うと、『ああ、調べるわ』『メモしとくわ』みたいな感じで(やり取りしている)」と岡部は松重とのやり取りを明かし、場を盛り上げた。
〜〜〜
松重豊さん、大森南朋さん、山田裕貴さんと岡部さんはいつも撮影が一緒みたいですね。
仲良しだなぁ😊
10/26発売の「るるぶ静岡 清水浜名湖富士山麓伊豆'23」にどうする家康特集があります!
潤くんのお写真と相関図 2p
特別付録:家康ゆかりの地BOOK
るるぶ静岡 清水 浜名湖 富士山麓 伊豆'23 | JTBパブリッシングの出版案内
るるぶ<主な特集内容>
【巻頭特集1】静岡はやわかり
①新発見!映えシズオカ
……
②とっておき旬旅プラン
徳川家康ゆかりの地をめぐる駿府~日本平プランをはじめとする、とっておきの静岡最旬モデルコース全5コースをご紹介!
来年のNHK大河ドラマ「どうする家康」をきっかけに浜松市を徳川家康ゆかりの地としてPRしようと、県外の旅行会社を招いて、関連する観光地などをめぐってもらう商談会を兼ねたツアーが行われています。
浜松市や市の観光振興団体が企画した1泊2日のツアーには、首都圏や関西圏などの旅行会社14社の担当者が参加しました。
初日の14日、担当者たちが昼食に浜松餃子の店を訪れ、地元の名物を味わうとともに、写真におさめていました。
続いて訪れた浜松八幡宮では、「三方ヶ原の戦い」で武田軍に敗れた徳川家康が身を隠したと伝わる「くすのき」などについて紹介されていました。
………
東京の旅行会社の担当者は「家康ゆかりの神社などがたくさんあり魅力的だと感じた。首都圏のお客さんにもわかりやすく伝えられるツアーを考えていきたい」と話していました。
………
天正13年11月13日(1586年1月2日)、徳川家康の重臣・石川数正が、豊臣秀吉のもとに出奔しました。出奔の理由はいまだ明らかでなく、徳川家の軍事機密を知る重臣が秀吉のもとに奔ったことに、徳川家は大きな衝撃を受けたといわれます。
石川数正は天文2年(1533)の生まれで、家康よりも9歳年上でした。通称は与七郎。家康が今川家の人質だった時代から側にあり、桶狭間の合戦を機に家康が三河で独立した際には、危険を承知で自ら駿府まで赴き、家康の正室・築山殿と長男・竹千代を無事に連れ帰っています。その後、織田信長との清洲同盟締結に尽力、元服した竹千代は信長と家康から一字ずつ取った信康と名乗り、同盟を象徴しました。それらの功で数正は家老に任ぜられます。
永禄12年(1569)には、家康より岡崎城を拠点とする西三河の旗頭(諸松平家や国人を統御する役割)に任ぜられ、吉田城を拠点とする東三河の旗頭・酒井忠次と並び立つ存在となりました。
合戦でも姉川の合戦、三方ヶ原の合戦、長篠の合戦などで武功をあげ、本能寺の変直後の伊賀越えでも家康に従って、三河に帰還しています。
そんな徳川家中において押しも押されもせぬ家老が、なぜ家康から秀吉のもとに奔らなくてはならなかったのでしょうか。
伊賀越えの後、数正は家康の命を受けて、山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉のもとに戦勝祝いに行っています。2年後の天正12年(1584)、家康と秀吉は小牧・長久手で干戈を交えますが、数正が出奔したのはその翌年のことでした。
これを受けて、「数正は秀吉から提示された条件に目がくらみ、籠絡された」「秀吉の器量に惚れ込んだ」といった見方もされています。
確かに秀吉は数正をすぐに8万石の大名に取り立てており、そうした見方もあり得るかもしれません。しかし他家に比べて忠義心の篤さでは群を抜く三河武士の、しかも生涯の大半を徳川家のために尽くしてきた54歳の重臣が、簡単に主家を捨て、裏切り者の汚名を着てまで、秀吉になびくものでしょうか。いささか釈然としないものも感じます。
あるいは鍵となるのは、家康の長男・信康の死かもしれません。信康は天正7年(1579)、武田家との内通疑惑により、織田信長の命で切腹させられています。数正は駿府から信康と築山殿を連れ帰って以来、岡崎城で信康の後見役を務め、その成長を見守ってきました。そして長篠の合戦で初陣を果たし、将来有望な若武者となった信康は、いずれ徳川家の後継者となることは確実でした。それは数正と石川家の将来を保証するものでもあったはずです。そんな信康が突然、濡れ衣を着せられ落命しました。
実は、この事件で信長は明確に信康の切腹を命じたのではなく、「徳川殿の良いようにされよ」と言ったのみであったともいいます。ただ信康の正室(信長の娘・五徳)が信長に送った手紙に書いていた信康の行状について、信長が使者の酒井忠次に確認すると、忠次がすべてを事実と認めてしまったため、家康は信康を切腹させざるを得なくなったという経緯がありました。
なぜ酒井は信康を庇おうとしなったのか、ここに信康事件の本質と数正出奔の理由があるのかもしれません。
当時の徳川家は、信康を担ぎ、数正を中心とする岡崎衆と、家康を担ぎ、酒井を中心とする浜松衆に分かれていたと見ることもできます。そして信康が家督を継げば、徳川家中の実権は浜松衆から岡崎衆に移ることは確実です。浜松衆がそれを防ぐ手立てとしては、信康を後継者から外すしかありません。つまり信康切腹事件は、酒井ら浜松衆の意思が背後にあった可能性があり、数正もそれに巻き込まれ、信康を失って発言力を失ったと見ることもできるのです。
以上はあくまで可能性に過ぎませんが、そうした経緯で徳川家中において微妙な立場となった数正に、秀吉が好条件で誘いをかけたという流れもあり得るように思います。
文禄2年(1593)、数正没。享年61。ちなみに山岡荘八の小説『徳川家康』などでは、数正は羽柴家内部から徳川家に有利な外交を誘導するため、あえて出奔したことになっています。
〜〜〜
石川数正が出奔した理由は知りたかった謎の一つです。
もちろん、大河があるとわかってから知った謎ですが😅
大好きな松重さんが石川数正役ということもあって、ご本人と役柄が混ざってより「何故?」と思ってしまいました。
岡崎衆と浜松衆の派閥争い。
信康事件とも関係してるのかもしれない。
山岡荘八の小説などでは、羽柴家内部から徳川家に有利な外交を誘導するため、あえて出奔したことになっている。
……今のところ、本当の理由はわかりませんが、すっきりとはしません。
古沢さんがどう描くのか?
大森南朋さんと松重豊さんがどう演じるのか?
ドラマなので、あくまで古沢さんの脚本次第。
山岡荘八の「徳川家康」は昭和25年から43年に書かれたものなので、その後研究も進んでいるはずですから、楽しみです😊
1965年東京都生まれ
公益財団法人德川記念財団理事長
浜松市大河ドラマ館名誉館長
浜松が東西文化のぶつかる地域であるということは、よく言われる。東京と大阪の、ちょうど中間点あたりという位置からも容易に察することができるし、鰻の焼き方でも東京流と大阪流が混じり合っている、といった事実にもそのことは現れているのだろう。
古来、歴史的に大きな役割を果たす人物というのは、そうした異文化が衝突し合う土地、いわば境界地域から出てくるのが常だった。わが国で言えば、信長、秀吉、家康という、天下統一のいわゆる三英傑となるし、西洋史でいけばアレキサンダー大王や、悪いところではヒトラーといったあたりが、すぐに思い浮かぶ。
徳川家康が、そうした歴史法則を知っていたはずもない。だが、浜松が色々な意味で、境界の地であるということは、意識していたはずだ。例えば浜名湖は、海と陸の境界ともいうべき汽水湖であり、浜松に移った徳川家臣団は、その恩恵にあずかるところ大であった。
何より、生国である三河の東方、駿河で人質という身分ながら武将たるべき教育を受けた後で三河に戻り、今度は三河の西側に拠点を置く織田信長の同盟者となって、浜松に移って東日本を代表する名門武将の武田信玄と対峙するという自身の履歴から、家康は自分が最前線という名の境界の地にいるのだと実感しないわけにいかなかったであろう。
家康は信長の忠実な同盟者として武田信玄、そして信玄没して後には、その息子の勝頼と何度も戦い、ついには武田氏を滅ぼしている。いや、まだ曳馬と呼ばれていた浜松(浜松、というのは家康の命名である)に入国する準備をする時から、武田家とは衝突していた。強豪の武田氏は、まさしく宿敵だったのである。
だが、その武田 — より正確には信玄を、家康は憎み恐れるのではなく、尊敬していた。それどころか、信玄病死の報を聞いた際には、「たいへん惜しむべきこと」「喜ぶべきではない」と哀悼の気持ちを家臣に漏らし、さらには「およそ隣国に強き武将がいる時は、自国も万事に油断なく心を用いるから、自然と国政も収まり武備も緩むことがない」と、隣りに強大な敵が存在していたことに対して、恨み言を言うのではなしに、あたかも僥倖であったかのように語ったのだ。
今風に言えば、ポジティブ・シンキングということになるのだろうが、突き詰めれば殺し合いが世の常という戦国時代にあって、強敵(つまり、自分の首を取りに来る相手)を尊敬するというのは、容易ならざる心の持ちようだったはずだ。
敵を敵と認識し、恐れつつも、これを憎んで罵り譏理、果ては侮蔑するのではなく、その力と長所とを認めて、尊敬する。このような複雑な心を持ち得たことが、家康の天下人への道を拓いた。何となれば、相手を尊敬することは相手を理解することに通じるからである。徳川家康が浜松の地で得たものは大きかったが、武田家との攻防を通じて得たこの「敵を知る」心構えこそが、最大の収穫だったかもしれない。