「どうする家康」時代考証歴史学者が「三方ヶ原の戦い」講演会

来年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を担当する歴史学者が、徳川家康が武田軍に敗れた「三方ヶ原の戦い」について語る講演会が、浜松市で開かれました。

3日、浜松市で開かれた講演会には、ドラマの時代考証を担当する歴史学者の平山優さんが講師として招かれ、およそ90人が参加しました。
この中で、平山さんは、浜松市の三方原台地が舞台となった「三方ヶ原の戦い」について、なぜ家康が大軍の武田軍に挑んだのか、研究成果をもとに解説しました。
平山さんは、まず、家康の居城だった浜松城は、浜名湖の水運を使って食料や織田信長からの支援物資を確保していたとして、「武田軍が浜名湖畔にあった堀江城を攻める動きをみせたため、家康は浜松城への補給路を断たれて徳川軍が干上がることを恐れたのではないか」と指摘しました。
その上で、「家康は、みずからのメンツや意地の問題ではなく、補給や援軍の問題から出陣せざるをえなかった」という見方を示しました。
参加した人たちは、メモを取るなどして、熱心に耳を傾けていました。



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家康の選択
「どうする家康」の中でたくさんのどうする?が出てくるのでしょうが、そこでどんな選択・行動をするのか?
そこにどんな意味・考えがあったのか?

おもしろそうだなぁ✨
家康の頭の良さにもたくさん触れられそうです。



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徳川家康の「桶狭間」後が何ともしたたかすぎる訳


記事



徳川家康は優秀なビジネスパーソンでもありました。

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の放送開始に向け、徳川家康に注目が集まり始めました。それを受け、ここでは若き日の家康、松平元康と名乗っていたころに起きた戦いを、歴史にあまり詳しくない方も理解しやすいようにビジネスの視点を交えて解説していきます。

今回取り上げるのは桶狭間の戦いです。織田信長が一気に戦国時代のスターダムにのし上がるきっかけとなった戦がどういうパワーバランスで起きたのか、そして元康はそこでどういう意思決定をしたのか……
………眞邊明人氏が解説します。

圧倒的に不利な状況で重要なのは「観察」

桶狭間の戦いは、今川軍が2万5000、織田軍は2500〜3000という圧倒的な兵力差があるなか始まりました。絶体絶命の織田信長は一か八かの機動戦を試みます。いわゆる「OODAループ」を回すわけです。OODAループは、日本のビジネスシーンでは広く取り入れられてきたPDCAに比べると耳慣れないものかもしれません。

このメソッドは、ジョン・ボイドというアメリカの航空兵士が作ったもので、状況を「観察」し、「仮説」を立てて「選択」をし「行動」するという一連の流れを、高速で回して戦況を改善する手法の一つです。現在はアメリカの国防省にも採用されている考え方です。

PDCAとOODAループの最も大きく違う点は、じっくり計画を立てるのではなく、与えられた状況で瞬時に観察し仮説を立てることにあります。

信長はこのとき状況をこう観察し、以下のような仮説を立てたと思われます。

まずは2万5000という敵の兵数が一つの塊なのか、それとも分散されているのか。なおかつ、この圧倒的な兵力差で勝つ可能性があるとすれば、敵将である今川義元ただ一人を討ち取ることができるかどうか。

こうなると信長の戦略は義元がどこにいるかという方向と範囲に限定され、義元の居場所が見つかれば勝つための仮説が立てられ、勝つための選択もできるという流れになります。幸いなことに信長は、桶狭間山とも田楽狭間とも言われる、義元の居場所を特定できました。このとき、今川軍は前線に2万を、そして義元の本陣5000は後詰めに配置していました。

信長は義元のいる本陣にすべての兵力を集中します。


戦力=人数×武器効率

で推し量る、ランチェスターの法則でいうところの「狭域戦」に持っていくわけです。

「広域戦」の戦力計算式は人数の二乗×武器効率ですが、これをぐっと方向と範囲を狭めて「狭域戦」、つまり狭い範囲に持ってくると、この二乗の部分が消えます。だから変数は武器効率だけに限定できるわけです。

この戦における武器効率というのは、ものすごい新兵器があったわけではなく「武器がうまく使える」状況を指します。自分たちには土地勘がある、相手が油断している、雨で見通しが悪く自分たちは見つかっていない、そして機動力、つまり速さがあったということです。

今川:人数5000×土地勘がない、油断している、敵の居場所が不明、機動力がない
織田:人数3000×土地勘がある、油断していない、敵の居場所を特定、機動力がある


「武器効率」で倍近い兵力差を覆す

このように、ほぼ互角以上の戦いができる「狭域戦」に持ち込めたおかげで、義元を見事討ち取ることに成功しました。

この勝利は、おそらくラッキーだったところが相当大きいと思います。義元を討ち取れたからよかったものの、もし逃げられていたら、どうやっても勝ち目はなかったでしょう。信長としては本当にイチかバチかの、万に一つの懸けに勝ったという、そういう意味での激勝だったわけです。

さて3000の兵で5000の兵を討ったのはいいですが、問題はここからです。先行している今川兵は、あと2万います。普通に考えれば、この大兵団が引き返してくれば3000と2万になって、しかも戦える場所が限られています。

今度は圧倒的に敵の兵数が多いため、どう考えても勝てないはずですが、今川家はいわゆるPDCA型の組織で現場の将や兵の1人ひとりが自ら判断する自由を与えられていません。P(計画)をつかさどるリーダーの義元が討たれてしまうと一気に軍は総崩れになってしまいました。今川義元1人討ち取られただけで、この2万の軍隊はまさに散り散りになって逃げるという悲惨な状況を招いてしまったわけです。

通常はPDCA型の組織は、計画さえ破綻しなければ、その改善をしてどんどん修正していく力が働くのですが、計画そのものが破綻した場合は臨機応変に立て直すことができません。これは現代の大企業でも同じで、大きな計画が崩れると、人が多い分だけ統制が取れなくなってガタガタになるのはよくあることです。


一方の当時の織田家はいわゆるベンチャーのように少人数組織だったので、意思決定のスピードが非常に速く機動的に動けました。リーダーである信長としての最悪の事態は自分が討たれることだけなので、イチかバチかの判断をしやすかったということもあります。ここが信長のラッキーな点でした。何もかもが信長にとってうまく回ったという印象です。

このとき徳川家康(松平元康)は、この雲散霧消させられたうちの一隊でした。彼は自分のチームを率いて逃げるわけですが、かつて松平家の城だった岡崎城方面に向かいます。この岡崎城は今川の守備兵が守っていました。

このとき元康の部下は「一気に岡崎城を乗っ取ってしまいましょう」と提案します。岡崎城の城主に戻るのが当時の元康のミッションですから、今川の守備兵がかなり少ないなら一気に中に入って奪い返すというのは、普通に考えたら非常に機動的な考えですが、これを元康は止めました。そして近くの寺に布陣して岡崎城に入りません。

そうすると、岡崎城の近くにいた今川の兵たちは意図がわからないと怯えます。「どうか松平さん、城に入ってください。一緒に戦いましょう」と懇願しますが、これも元康は断ってしまう。元康の意図が掴めず、しばらくは膠着状態が続きますが、元康の部下としては背後から織田が追ってきているわけですから非常に危ないと思うわけです。

つまり織田軍と決戦することになる場合、城の中にいるのと野外で戦うのとでは強さがまるで違います。自軍を守り敵軍を倒すためのものが揃っている城に入ったほうが圧倒的に強いのですが、元康は頑として入ろうとしない。

そのうち「これではダメだ」と今川の守備兵は逃走します。このタイミングでようやく元康は岡崎城に入城します。

状況を的確に観察し最悪を避ける

信長が桶狭間の戦いでOODAループを回したのと同様に、このとき元康が行ったのも、まさにOODAループです。ただ信長のOODAループと若干違うのは、信長の場合は、もう選択の余地がないイチかバチかの懸けでした。一方の元康はそうではなく、いろんな選択肢が考えられるなかでの意思決定でした。

まずOODAループの基本的な考え方は「最悪を逃れる」ということです。ここで言う最悪とは、当時の松平家からすると相手が織田であろうが今川であろうが滅ぼされてしまうことです。したがって元康の命、そして配下の兵の命が大事なわけです。


そのうえで考えられる選択肢1としては、そのまま今川の領地を乗っ取ることですが、この場合は完全に今川家を敵に回します。

選択肢2は、今川の守備兵から「一緒に城に入って守ってくれ」と言われたところで入城すること。これは織田に完全に敵対という意思を示すことになります。しかも今川の配下ということを決定づけてしまうわけです。元康としては、今川家という大企業の営業課長のような地位にとどまって会社を取り戻せないことになる。立場がまったく変わらないということになります。

空き城になった時点で入城

元康がとったのは上記の2つではない3つ目の選択でした。ギリギリまで耐えたことで今川の守備兵が逃げて空き城になった時点で入城という選択です。これによって、今川家に対して守備兵が逃亡したので入城したというエクスキューズができます。基本的には本部からの指示、本社からの指示があるまで私は動きませんでしたという事実をつくりました。

義元が討たれたとはいえ、後継の息子は健在だったわけですから、会社で言えば新社長はすぐ決まります。もし守備兵に、元康が勝手に岡崎城に入ったと報告をねじ曲げられでもしたら、今川方につく形になったうえに本部の話を聞かなかったという扱いになるわけですから、その後の立場は悪くなるわけです。

しかし今川の守備隊が逃げてくれたことで「本部の指示がなかったからだよね」という既成事実を作れたため、岡崎城に入るという大義名分ができました。一方、織田に対しては今川兵がいなくなってから入っているわけですから、今川方とはとらえられません。

結果、今川にも織田にも、岡崎城に入った元康が味方なのか敵なのかがわからない、という状態になります。

この非常に難しい判断を、弱冠20代前半だった元康が行えたというのは非常に素晴らしいことです。

そのまま城を乗っ取った場合、今川と組んだ場合、そうでないパターンと考えて、仮説選択を行っています。OODAループというのは自分で状況をコントロールできるようにするものです。


元康は岡崎城に入ったのですが、織田に対しても今川に対しても、どちらの味方がわからないという状態を作れました。つまり意思決定できるのは松平元康ということになったわけです。これは今川からも織田からも、コントロールしにくい状態と言えます。

元康は松平家の城を取り戻すことに成功

彼はこの状態で1年以上を過ごします。当然この間に織田方とも戦っていますし、今川方とも小競り合いをしました。この過程でも元康はずっと今川、織田及びその周辺の状況を「観察」しています。観察での大きなポイントは、今川と同盟を結んでいる北条・武田の動きです。もし同盟関係が安定しているなら元康としてはまだ今川家についたほうが得となりますし、下手に敵に回せないことになります。

同盟関係が崩れたなら、今川家は戦力を東に向けて守らねばならず、それであれば、織田と敵になっているより、味方になったほうが得です。結果的には武田家が今川家への内政干渉を始めて、今川家は東側に注力せざるを得ないとなったところで、元康は信長と清洲同盟を結びます。ここで、元康は念願の独立を手に入れることになりました。

今川の先鋒として参戦した桶狭間の負け戦の中で元康が行ったOODAループ。

岡崎城に入る判断を間違えていたら、われわれが知る徳川家康はいなかったかもしれないし、江戸時代はなかったかもしれません。このときの元康の意思決定の判断力というのが、桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を収めた信長の意思決定に匹敵するものだと思います。

信長と組んで家康と名乗るようになった後も、彼は何度もリスクのある意思決定をしました。

信長亡きあとは秀吉、秀吉の死後は関ヶ原の戦い、という重要な意思決定の場で、この「観察」「仮説」「選択」「行動」というOODAループを回していたと思って間違いないでしょう。ひとつ間違えればダメだというところで、まず間違いない意思決定を行っていました。

このように最悪の事態を想定しながら、よりよい選択をスピーディーに模索し行動する戦国武将の姿は我々ビジネスパーソンにとっても見習うべき部分が多いのではないでしょうか。



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PDCA

Plan「計画」→Do「実行」→Check「評価」→Act「改善」


こちらは古く、今はOODA ですか?

Observe「観察」→Orient「仮説」状況判断→Decide「選択」意思決定→Act「行動」


「仮説」を立てて「選択」をし「行動」するという一連の流れを、高速で回して戦況を改善する。

こちらを当時の元康がやっていたなら、凄いですね!


潤くん、自分はDoから始まる方法でやってきたと。

DCAPだと!

とりあえずやっちゃいなよ!

長い間、実際にこのやり方でやって来て、結果も大きな成果も上げている潤くんが言うんだから私は支持します💜


どちらにしても行動までに時間をかけないって重要ポイントですね!