ここでは悪口としての「バカ」をとりあげる。
「バカだと相手の事を断定的に決め付ける行為」である。
バカであると断言するにはその人間を知り、研究し、理解し、途方も無い時間をかけて「バカ」であることを証明するか、「バカな行為」を何の疑問も抱かず対象が行っていることを証明することが必要となる。
ゆえにその証明も無しに「バカ」だと言うことは何の根拠もない発言である。根拠もなく断定する人間は自分がバカだと言っているのと同じである。
また、仮に途方もない時間と労力を費やして対象の言動、行動、人間性からバカだと呼ぶにふさわしいと判断しても、そのような時間の浪費は「バカな行為」たりえる。
前者においては「根拠もない発言を行う事」
が
「バカな行為」なので
「バカな行為を行う人」すなわちバカ。
しかし、安易に「バカっていう方がバカ」っていう方もバカである事を明記しておきたい。
このとき、ともすれば
「バカって言うほうがバカって言うほうがバカって言うほうが…」というループに陥る。(小中学生ならば、このバカループに陥ることによる仲直りも有り得るが)無限ループを打破するためには、
そもそも「バカって言うほうがバカ」が成立しないという証明をし、矛盾させねばならない。
矛盾した論理をしたり顔で活用したがる行為は
「バカな行為」である。
よってバカ。
対して、
「バカって言う人がバカ 」
が成立しない理由として、二者間におけるバカという単語の質的違いと証明の可能性が挙げられる。
まず
「バカって言う人がバカ」
における前者のバカは、「バカな行為をするがゆえのバカ」と定義付けるならば証明可能である。
最初にバーカと言われた対象がその理由として、何らかのバカげた行動・言動をしている前提である。
しかし後者は勢いで言い返したバカのため、言い返された対象がバカであるという証明が不可能であり説得力を持たない。
すなわち、行為そのものがバカな行為か否かを判別する第三者が不在のときでさえ「バカって言うほうは根拠を持ち、バカって言われたほうはバカっ言い返す根拠がない」
という場合があるのである。
よって必ずしも「バカって言うほうがバカ」は成立しないため、この言動は矛盾する。
子供の口喧嘩においては実態のない、語感の攻撃力のみを頼みに吐いたその瞬間、吐いた本人がバカである証明にさえなってしまう言葉の一つとして認知することが、悪い意味でのバカ脱却の第一歩であると提案したい。
「バカだと相手の事を断定的に決め付ける行為」である。
バカであると断言するにはその人間を知り、研究し、理解し、途方も無い時間をかけて「バカ」であることを証明するか、「バカな行為」を何の疑問も抱かず対象が行っていることを証明することが必要となる。
ゆえにその証明も無しに「バカ」だと言うことは何の根拠もない発言である。根拠もなく断定する人間は自分がバカだと言っているのと同じである。
また、仮に途方もない時間と労力を費やして対象の言動、行動、人間性からバカだと呼ぶにふさわしいと判断しても、そのような時間の浪費は「バカな行為」たりえる。
前者においては「根拠もない発言を行う事」
が
「バカな行為」なので
「バカな行為を行う人」すなわちバカ。
しかし、安易に「バカっていう方がバカ」っていう方もバカである事を明記しておきたい。
このとき、ともすれば
「バカって言うほうがバカって言うほうがバカって言うほうが…」というループに陥る。(小中学生ならば、このバカループに陥ることによる仲直りも有り得るが)無限ループを打破するためには、
そもそも「バカって言うほうがバカ」が成立しないという証明をし、矛盾させねばならない。
矛盾した論理をしたり顔で活用したがる行為は
「バカな行為」である。
よってバカ。
対して、
「バカって言う人がバカ 」
が成立しない理由として、二者間におけるバカという単語の質的違いと証明の可能性が挙げられる。
まず
「バカって言う人がバカ」
における前者のバカは、「バカな行為をするがゆえのバカ」と定義付けるならば証明可能である。
最初にバーカと言われた対象がその理由として、何らかのバカげた行動・言動をしている前提である。
しかし後者は勢いで言い返したバカのため、言い返された対象がバカであるという証明が不可能であり説得力を持たない。
すなわち、行為そのものがバカな行為か否かを判別する第三者が不在のときでさえ「バカって言うほうは根拠を持ち、バカって言われたほうはバカっ言い返す根拠がない」
という場合があるのである。
よって必ずしも「バカって言うほうがバカ」は成立しないため、この言動は矛盾する。
子供の口喧嘩においては実態のない、語感の攻撃力のみを頼みに吐いたその瞬間、吐いた本人がバカである証明にさえなってしまう言葉の一つとして認知することが、悪い意味でのバカ脱却の第一歩であると提案したい。