“あらためて円山幹子の犯罪をについて考えてみる-本当の終わり?” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“あらためて円山幹子の犯罪をについて考えてみる-本当の終わり?”

「貧乏するにはそれだけの理由がある。始めから金持ちの人間はいない。人生の終わりまで貧乏なのはその当人に責任の大半があるということだ」。やれやれ、いきなり背中を蹴飛ばされたような気分だ。これは、映画『戦争と人間』に登場する新興財閥伍代グループの当主伍代由介を演じた名優滝沢修の口からこぼれ出たセリフだ。言葉を交わしている相手は息子の伍代俊介、撮影当時はまだ勘九郎坊ちゃんだった故十八代中村勘三郎だ。心酔するプロレタリア画家の貧しい老婆を描いた絵を買って欲しいという息子に向かって財閥の当主が返した言葉だ。ある意味定型と言っていい考え方だろう。これに『護られ・・・』の城之内が怒気を込めた口調で吐いたセリフ「震災では多くの人が理不尽に命を奪われた。それに比べれば君たちの境遇には理由がある。そういうことをよく考えてみたらどうですか!?他人の所為ばかりにはせず!」。どうだろう? 見事に重なってはいないか? 私はだからといって特段これを非難しようとは思わない。ただ一言「成功者がしばしば不遇な人々に冷淡なのはその者の人間性に大半の理由がある」とでも言い返しておこうか。一生貧乏暮らしをしてしまう人間と成功して貧乏人たちを見下す人間とを殊更に並べて論じたところで得られるものはほとんどない。人の世とはそういうものなのだから。

 カンチャンが津波に呑まれて帰ってこない母に対して常々とっていた態度を深く悔やみながら述懐した後遠島けいに抱きしめられて泣きじゃくるシーンがある。実に切ない一コマだ。これと円山幹子が後年市の福祉課の職員として担当することになる母子のケースとはほぼ重なっているだろう。幹子の境遇を推測してみるとこういう家族史が見えてくる。父親が不慮の事故で他界し、母子が残される。貧しいだけではなく様々問題を抱えていた家庭に育ち高校も卒業できぬまま社会に放り出された二人。そんな二人が例えば外食産業の職場なんかで出会い家庭をもつ。そのいっときの幸せの先で待っていた突如の暗転。ロクな学歴も身に着けた技術もない、幼い娘を抱えた若い母親が就ける仕事は限られている。娘の先々のことを考えればある程度の収入も必要だとなればさらにその範囲は狭まる。酒やタバコの匂いをまとった母親の頬ずりを幼い少女がイヤがったとしても責めることはできないだろう。娘が口走った言葉に母親は傷つき飲み直したりしたかもしれない。娘を責める気はないが、死んでいった夫には少し憎まれ口をきいたかもしれない。“貧乏するにはそれだけの理由がある”。“君たちの境遇には理由がある”。・・・しかしわれわれは、こういう言葉が飛んでくるところで生きているのだということくらいは腹に据えておいた方がいいということだろう。ここはそういう場所なのです。

 ガマ口を片手に路上に散らばった小銭を懸命に拾い集めている貧しい身なりの老婆、それが伍代俊介少年が父に買ってくれとせがんだ画家灰山の作品だ。最近聞いた話だ。電子マネーしか知らない現代の子供たちの中には、偶々もらった現金を使ってみたのはいいが初めて目にしたツリ銭の硬貨の意味が分からずジャラジャラ邪魔っけだからと路上に捨ててしまったという例もあるようだ。このエピソードには訳の分からないカード騒動に戸惑いうずくまっている高齢者たちのシルエットまでも重なってくる。親子の議論を圧倒的勝利のうちに終わらせたと自負する伍代由介は貧乏をなくすためにも社会を豊かにしなければならないのだと言い聞かせて締めくくる。豊かで便利になった現代社会の子供たちは訳の分からないメダル様の物体に戸惑い路上にばらまいている。後で誰かが拾っただろうが、見過ごされたその一部はまだ人目につかない世界の隅っこで誰かに見つけられるのをじっと待っているのかもしれない。この今の世界の現実を通して断言できると思えることの一つが、“社会が豊かで便利になれば誰もが落ちこぼれなく豊かで便利な暮しができるわけではない!”ということだ。いつの時代においても、先頭を走る人間群と落ちこぼれ諦め落伍し置き去りにされてゆく人間群とは乖離してゆくものだ。その間を埋め得るものがここに存在しているようには見えない。よって先頭を走る者たちの苛立ちは高まるばかり。だから冷徹に宣告される。“それには理由がある!だから順々と運命に従って滅びなさい!”やれやれの3乗ってところだ。

 円山幹子が、保護費外の収入のことでうつ病で生活保護を受けている母親を諭し、保護費を不正受給しながら車を乗り回している男を難じる姿は、外見的には三雲のそれとそっくり重なって見える。だが言うまでもなくそこには異なる理念とポリシーの隔てがある。円山が必要とする人々のために制度を適正に運用することを心掛けているのだとすれば、三雲は申請を却下する理由やスキを見つけることに愉快犯的な愉悦を覚えているのではないかとさえ疑わせる。その悪辣冷酷なあり方に市民の福祉に挺身する者の姿はない。ここから見るならそういう三雲の仕事ぶりを看過してきた城之内の心底も見えていると言ってもいいのかもしれない。自身はそこまでのことはできないとしてもそういうタイプの部下いることを歓迎していた可能性は否定できない。だから殺していいいうのでは決してないが。 “その当人に責任の大半がある”は認めるとしても敢えて言い返しておきたい。その“責任の大半”なるものには当然のように残余のまた別の背景的原因を成す部分があるということだ。私はそれこそ“敗者落伍者必然発生の原理”とでも呼ぶべきものではないかと考えている。サバンナやジャングル同様ではないにしても人間社会が生存競争の側面を色濃く持つことは太古から変わらないと言っていいだろう。受験生全員が苫篠の指導を仰げば東大に入れるわけではない。東大に限らず定員というものが必ずある。大中小に関わらず企業の社長という地位も概ね一人と決まっているし、多くの国では夫も妻の一人と定められている。競争や争奪戦があれば当然のように敗者や脱落者が発生する。背景的原因を成すのはこれだけではない。いかなるものにも凸凹がありバラツキがあるということだ。しかしだからといって、ベルトに乗って流れてくる大量生産の商品の不良品をハジくみたいに人間を扱っていいわけがない。プログラムにしばしばバグが紛れ込むように同一種の個体群の中にもなにかと困った事情が発生することは避けられない。必ず様々な障害や標準形から外れがちな個体群も一定程度発生する。中でも厄介なのが罪悪感の希薄な傾向にある人格群だ。平気でウソを吐き、平然と他人を騙し、アンフェアーな手段を弄して他人を出し抜く。生活保護を詐取するなど朝飯前という手合いだ。その次に厄介なのが脆弱な人格群だ。小心で優柔不断、なにかにつけて消極的で閉じこもりがち。ニートとか引きこもり、8050問題など結構その規模は小さくないので、社会問題化している。こういう個体群をいっそ排除一掃してしまおうと考えたのが例えばナチズムであり、優生保護法のベースにあったような思想だ。確かに標準レベルやそれ以上に優秀な人々の目に劣性とされる個体群が目障りで厄介なお荷物のように映ったとしても仕方ない面はあるだろう。実際、手がかかったり大迷惑だったりするばかりか生命を脅かされることだって稀ではないのだ。そういう考えに誘惑されてゆく人々がつい口にしてしまう“その当人に責任の大半がある”の宣告。こういうややこしい状況に普遍的な解などあるだろうか? 誰が考えたってあるわけがない。

 人類とは如何なる生き物なのか!?に普遍十全絶対の回答がなどあり得ないだろう。唯一回答が為され得るとしたら人類が終焉したときだけだろうが、それを検証する者もその回答を聞ける者ももはやどこにも存在していないのだ。われわれが営々と向き合ったジグソーバズルにあらかじめ定められた図柄があったわけではない。だから完成というものとも無縁だ。総現象と総活動の織り成す永遠とも言える更新に継ぐ更新、理想と現実論が入り混じり争い合うてんやわんやがそこにはあるだけ。多分どんな人間であっても、優れて有能なだけではなく誰からも敬愛される好い人になれればどんなにいいかと思っているに違いない。だが、そういう人々は人類のほんの一握りに過ぎない。多くの者が自己嫌悪と自己顕示の間で苦しんだり爆発したり迷ったり暴走したり。そうでしかないのならそれをやり抜くしかあるまい。

 妻子を亡くした苫篠と遠島けいが清潔な孤独の境涯で出会っている。他人を気遣い、ときには声をかけ、世話を焼き、そこはかとない慈愛溢れる微笑で他者の生命を寿ぐ。そして欲張らず余計なことは言わず自分のことは少し諦めて世界を見ている。まるで誰かが希求したデクノボーかのようだ。苦労らしい苦労など知らない若造に理解できる境地ではない。自分への関心を少しだけ減ずること。ただそれだけの作法が味わい深い鈍い光を放っている。そこにある人間という生き物の奥底に潜む光源。それこそが人類の達成だったのではないだろうか。そんな気もする。それだけでヒトって生き物は大成功だったのではないだろうか。多分・・多分だが、そういう達成と惨たらしい所業とは無縁ではないのだ。深く深く正しく傷ついた生命だけが分け入ることのできる細道というものがきっとある。ケモノ道の隣に延びるか細い一本の道。人間への・・・遥かな道だ。人間への道などにはとんと興味も関心のない権力者たちが大活躍のこの時代、だがその目には見えない光の場所で密かに人間は育っているのかもしれない。

 利根は、残りの刑期を勤める間も刑期を終えて社会に復帰した後も大いに学ぶことになるだろう。それはカンチャンも同じことだ。そしていずれは二つの人生行路は一つに重なって柱となり人々を集めることになる。観察し感応しよく考えよく議論し地に足のついた空回りしない地道な活動に勤しむ。不遇な子供たち、その親たち、そういう人々を迎え入れる場所を準備する。連携するグループを増やし、着実に人間の輪を広げてゆく。

 「最初に皆さんに言っておかなければならないことがあります。私は二人の人の生命を奪い刑務所に入りました。なぜそういうことをしてしまったのかについては今話すことはしません。お知りになりたければここに私がつづった手記があるので気が向かれたら目を通してみて下さい。粗末な手作りの冊子です。お代はもちろんいただきません。私は、これまでもこれからもこのことを隠そうともまた隠し通せるとも思っていません。しかし、こういう私の過去の一切が今の私をつくったと思っています。そんな私の今の信条は弱者は弱者同士で助け合うしかないということです。人の哀しみや苦しみを真正面から受け止めることのできない力ある人たちに頼ると必ず助けられる代わりにその何倍も奪われるからです。私たちは私たちの知恵を尽くして棲み分ける。それしかないと私は思っています。肩肘張らず頑張らず、それぞれが可能な範囲内でできることをする。それだけです。こんな考え方に賛同されてご参加いただければこの上ない喜びです。どうかよろしくお願い致します」。最後尾から遠慮がちに声をかける者がある。「おかえり!カンチャン!」。

 理想と夢想はほぼ同じものだ。現実という堅固な壁はつまりは実に頑丈なのだ。究極私たちは運を天に任せるしかない。それだけが力のない者たちの最後の武器だ。そして、運が尽きたら笑顔で旅立つ。結構大変だったけどそれに負けず劣らず面白かったぜッ、なんて言えりゃ~頂上さ。期待できぬものに期待する愚はもう大概にしよう。多くの孤独な仲間たちがそれぞれの世界の片隅でそれぞれなりに踏ん張っている。それだけで十分じゃないのか。合掌。