“2023年やれやれの・・春” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“2023年やれやれの・・春”

 どういうものか使ってみなければ具体的なことは分らないので、チャットGPTなるものを試してみた。自分の短い文章を英語に訳させ、それを再び日本語に訳させてみるとか、PCの不具合の解決方法を訊いてみるとか、特定の作家の一文を示してどの作家のどの作品に出てくるのかを訊いてみたり、相当面白い回答があるというので超有名な俳優やタレントについても訊いてみたが平気であることないことてんこ盛りで答えてきたのには笑った。だが、彼に悪意があったり、妙なプライドから知ったかぶりでシレっとテキトーなことを言っているわけではない。彼には自意識も感情もない。ただ、超ハイスピードの計算能力と大容量の格納庫に蓄えた膨大な情報を土台に、寄せられた質問や要請を結晶核に集まって来る情報を確度の高さに従って選り分け機械的に並べて人間もどきの滑らかな文体にして返してよこしているだけなのだ。言うなら、彼は機械的な律儀さで機械的に懸命に答えている。ただそれだけのことだ。感想とか評価とか、主観抜きには語れない質問に関しては慇懃に応えられない旨を伝えてきた。実に機械的に誠実に礼儀正しく。とはいえ、客観科学的な理法に適った作法で共有されているデータや情報をベースとして答えられるものである限りかなり正確詳細な情報を網羅的に答えてくれることも確かだ。要するに可能な限り答えようと振る舞う高性能のマシンでありモデルであることは間違いあるまい。活用次第ではかなり便利なものが出てきたとは言えるだろう。ただ個人情報の扱いや分野によってはしばしば誤情報が紛れ込むという欠陥というか特徴というか笑劇的なクセには相当の注意が必要だろう。まだまだかなりの分野でウィキ氏の信頼度の方が勝っていると考えた方が良さそうだ。なにせこちらはかなりの頻度で人間の手によって更新修正が加えられている。ともあれ、どちらにしても問題は挙げて人間の側にあると考えるべきなのではあるまいか。AIという便利ツールの登場によって襲われる多岐にわたる誘惑に社会的実権を有する者たちが打ち勝ちつづけるという可能性はほぼゼロと言っていい。効率的な支配の武器いや道具として大いに活用してくることは間違いあるまい。こちら側としてはそういう腹積もりでいる必要はあるだろう。

 AI氏は、質問者から寄せられたテーマの言葉面だけを認識し、それに対して最大公約数的な回答、つまりあたかも頭脳明晰で経験豊かな賢人が考え抜いて出したかのような網羅的な見解を人間もどきの端正な文面で返してくる機械でありプログラムであるにすぎない。そういったところではなにも恐れる理由はどこにもない。あくまでももどきであってそこに人間的要素は欠片もない。彼にはそもそもアイデンティティー問題が存在しない。彼は男でも女でもLGBTqでもなく、如何なる人種にも国家にも属していない。それは出刃包丁や核爆弾それ自体に何者かへの帰属意識がないのと同じだ。一個のマシンでありそれに植え込まれたプログラムでしかないものはそもそも生命現象ではない。そういうものに人間同等の自己関心などあるわけがない。質問してくる相手に対しても知識としての分別はあっても異性か同性かみたいな事情による意識の変化のようなプロセスは一切存在しない。彼は人的な意味では何者でもないのだ。そういうマシンの提示する見解には当然ように責任問題も付随しない。そのやり取りが如何に人間臭いものであったとしても、それは一般的な誰かと一般的な誰かのやり取りに過ぎないということだ。それが如何に精緻な知に根差しているかのように見えても、所詮は誰にも当たり障りのない無難な一般式的な見解を出るものではないということだ。確かに蓄えた大量の知識と超高速の読み出し性能で提出されるご意見は、分野によっては参考とするにはなかなかのもではあるだろう。だがそれだけだ。

 AIは所詮様々な部品の集合体であるマシンだ。生命体として生きるということを身をもって知ることはない。生きるということ、いつか死ぬということ、その切実その痛切を実感として知らぬものが紡ぎ出す実しやかなご託宣は、どこまでももどきなものに過ぎない。膨大なデータをもとに機械的に放出される参考意見のあれこれをあらためてよく吟味した上で活用するのならまあ問題はないだろう。だが、その超高性能にめくるめいて頼り切り依存症のような状況に陥るとしたら問題だ。

 生命現象というものは奇跡的な瞬間の点状の連続と考えていい。なんらかの事由で突如途絶する可能性〔=死〕によって常に見張られている。死はいつでもそこに普通の顔をしてつきまとっているものだ。ただ、ルーレットの玉がそこにコトンと落ちないという幸運が連続しているだけなのだ。われわれヒトの思念の根柢にはそういう生命事態への常態的な不安や恐れや覚悟や諦めがある。しかしAIにそれはない。生存活動と死の必然という裂き難いセットを理屈の上での知識として記憶することはできるだろう。それをもとに振り付けられたあたかも人間かのような脅えや不安の演技をリアルにやってみせることもできるかもしれない。だがそこまでだ。身に染みた理解がないものが、それを当事者として生きざるを得ない者の本質に触れることは絶対的に不可能なのだ。それはどこまでももどきなもので終わるものだ。

 知の進化という現場において今のこの事態が避けがたいものであったことは疑いないだろう。人間個々の能力をはるかに超えた超高性能の電脳が登場することはかなり前から分かっていたことであり、そういう日々がついに始まったということだ。これを私はこう考えている。人間という生き物の愚かな部分が優れた部分に敗北してゆく過程なのではないだろうか、と。ヒトの優れた部分が愚かな部分に引導を渡すとき一体なにが起きるのか? 言葉にもしたくないが、それがすぐそこに迫っている気配が今や濃厚だ。非道や理不尽や凄惨血みどろの戦闘がこの星のあちこちで未だにだらだらとつづけられている。そこにどれほど有能でも人間個々人などととても太刀打ちできない電脳という化け物が姿を現したのだ、無事に済むと考える方が間違っているだろう。自意識を有しないただの道具という意味では出刃包丁も核爆弾もAIも変わりない。そしてこれらは誰かが保有し活用するものとして機能する。恐ろしいのはこの構造でありこの不均衡事態だ。家庭用の核爆弾を通販で購入できる時代など来るわけがないのと同様巨大電脳もそれを保有し得る者たちの手中で彼らに奉仕するものとして機能する。これが私たちの目の前にある避けようのない現実だ。

 われわれは本当に止めどない好奇心と突出した知力に勝る底知れぬ愚かさによって滅び去るのか? すでにその正念場にあるように思えてならない。現状を見る限り果てしなく暗い予感しかない。多分、特定の誰かなんかの所為ではないのだ。私たち一人一人の羽ばたき方の総和がこういう状況を招来している。しかし、だからこそ流れを変えることがこんなにも難しいのだ。誰かの所為ではないということはまた、誰か一人の力なんかで変えられるものでもないということだろう。ヒトという種の宿命。こんな一言で済ませていいとは思わないが、今思いつけるのはこれ以外にない。人間の現実が今こういうことになっているという総結果というものをつくづく眺めてみると、どこか生成型AI氏がひょいっと返してよこすその見解の生成のされ方と酷似しているような気がするのは私だけだろうか? あらゆる場における可能度欲求度実現度の高い順に機械的にピックアップされたものの集合がこの現実だということだ。こういうことだろう。現実をそっくりそのまま満足納得し得るものとして受け入れる者など皆無でも、結果としてそこにあるものは総人類が選んだ現実だということだ。誰にも都合がいいとされるものの総量と誰もが不都合とするものの総量がどちらに傾くのかが人類社会全体の空気と色を決めているということだろう。となると結論的に言うならこうなるだろう。結果として悲劇的なら、そろそろそういう時期、つまりは種としての総決算を迫られる情勢になっているということだ。今日の空はどんよりと重暗い。結局われわれはどれほどの生き物だったのだろうか? 無益な問いだがしみじみそんなことを思っている。最後に一つ。話は変わるが、宇宙開発なるものが盛んだ。技術的な進化が助長している面も大きいだろう。これは無知な町のおっさんの根拠の薄い推測による見解に過ぎないが、宇宙に様々なものを求めたくなる気持ちも分からなくもないが、その挑戦によって結局地球という星が更なる負担や犠牲を強いられるだけの結果になるのだとしたら、それってどうなんだろう?と思うばかりだ。さっきどこかの誰かが言っていた。“近い将来普通の庶民が普通に宇宙に旅行できる日がくるのかもしれません。夢が広がりますね”。やれやれ、今現在世界一周の船旅を普通の庶民が普通にできているだろうか? 一方には急激に進む人手不足状況で早晩かなりの業界が二進も三進もいかなくなる日が近いのではないかと言われている。この現実を前にすると普通の人々が普通に宇宙旅行ができる日なるもののあまりの非現実性に目が眩む思いだ。知的に正気を失っていると言えば言い過ぎだろうか? この地球という天体全体の未来を総合的に設計し直す必要に迫られているこのときにもっとも求められるものこそ本当の意味の「総人類会議」ではないだろうか。どうだろう、生成型AI氏にこう尋ねてみるのは。“人類が一致して取り組むべき課題を優先度順に提示してみて下さい”。・・・やれやれ。腹をくくろう! 合掌。