“ヒト・・という現象の・・・” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“ヒト・・という現象の・・・”

 “私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない”。ある書を概説する記事の中にあった一節だ。私は即座にこう思った。“この設問に対して回答を試みることに意味はあるのだろうか?”と。環境問題をすべて解決する、核兵器をはじめ世界中の軍備をすべて廃絶し恒久平和を実現する、世界中の原発を安全に廃炉する、貧困を撲滅し格差を解消しあらゆる犯罪やテロを根絶する、すべての差別や偏見を解決する、過剰する人口を適正なレベルで落ち着かせる、新型ウイルスを迎え撃つ十全な態勢を確立する・・・・・そして、死を克服し永遠の生命を実現・・・する? やれやれ。「私たちは何を望みたいのか?」。この設問に対する回答はいくらでもあるだろう。ごく個人的な願望まで含めれば人類の数倍あると言ってもいい。そして、私たちは一人の少年の“好きな女の子とステディーになりたい!”という切実な願望を前に腕を組んで考え込むことになる。その女の子がハンサムな男の子と腕を組んで歩いている姿を目撃したときの少年の胸中を想像するとなればさらに事態は深刻だ。“そういうことは誰にだってあることなんだよ。そういう辛い経験を重ねながら男は少しずつ強い大人の男に成長してゆくんだ。今は辛いだろうが耐えて頑張れ! この先には必ずこれに勝る喜びが待っている!”。その心にウソはないだろう。だが“必ずこれに勝る喜びが待っている”に絶対の根拠があるわけではない。人間は、そう信じて前を向いて歩いてゆくしか生きる道はないんだよ、ということだ。その女の子にはその女の子の願望も選択権もあるという現実は超えがたいということだ。大勢の子供が遊ぶ公園がうるさくて困る!と苦情を言い立てつづけた人があってとうとう公園が閉じられることになったという騒動があった。たった一人のために!?という反発と、平穏に暮らす生活権の問題は被害を訴える数によって左右されていいことではないだろうという考え方へと真っ二つに分かれた。これにも絶対の裁定はないだろう。それぞれの主張のベースにある価値基準に大きな違いがあるという事情もあるが、そもそもその人がどちらの側の立場に立つかによって意見が揺れているからだ。子供たちが可哀そう!とそんなしんどい思いを日々強いられるのは如何にも気の毒!。ここで立ち上がってくるのは、そもそもわれわれ人間に絶対公平な立場から意見を持つということは可能なのか?という問いだ。私の結論は、そんなものはあり得ない、だ。だから社会は、こういう揉めごとの際に当事者たちの上位から一定の権威と強制力をもって考察し判断し裁定しことを収めるシステムとして法というものを持ったのだ。これを少し角度を変えて眺めた上で言い換えるとこうなる。要するに、個々人が平穏に暮らしてゆくためには社会そのものの平穏な運営が不可欠なのであり、そのためには社会という第三者的上位者の裁定に従いながら個々人が少しずつ我慢し譲り合い少しずつ犠牲を払い合うことが絶対要件となるということだ。そして、そのために政治機構と政治権力がある。ここで二つの重要な要件が二つ見えてくるだろう。個々人の上位に位置する社会的権能が実際に正しい意味での威厳と公正性を示すのか? そして、政治が真に信頼に値する者たちによって遂行されるのか?だ。・・・・・ということで、お約束のやれやれと相成る。

 冒頭近くに並べた様々な願望の先に暗澹とする思いを抱くのは私だけではあるまい。言葉面だけで予測するならそのどれもがほぼ不可能だと言っていい。ここにも入れ子細工のように立場の違いってヤツが顔を出す。人の数だけ利害や意見の相違がある。またもやれやれだ。ここでここまでの展開をまとめてみるとこうなるのではないかと思う。“誰もが許容できる妥協点というものは、同時に誰にとっても程度の差こそあれ不都合なものである”ということであり、これを踏まえるならこういうことも言えるだろう。“全体の方針としてまとめられるものは決して特定の個人や集団の利益であってはならない”ということだ。さてでは、これは実際のところ現実的だろうか? 即座に否とするしかないだろう。私たちがこれまで見てきた多数決の原則で決定されてゆく決定機関の現場で多数の横暴が感じられなかったことなどほとんど絶無と言っていいからだ。少数意見というものは、その数が小さくなるに従って弱くなるか、あるいは冷ややかに無視されるというのが通り相場だ。だから、人の世でもっとも忙しいのは多数派工作ということになる。だから、数の内であればその力量や人間性がどうであれ、そこに“+1”とカウントされる椅子があればいいという体たらくになる。多数派に属さぬ者たちはただ遠くから批判の声を上げることが許されるだけでまともに相手にされることはない。しかし、世界を見渡せば自由に意見が言えるだけでもまだマシというのが昨今の人類社会の実情だ。大概恐ろしいと言うしかない。

 概説された書の中では、ほとんどすべての場面で統一化が進んでいるようだという件があるようだ。平たく言えば、この天体上では生存競争つまりは勝ち残り競争が常態なのだということだろう。勝ち残りによる大勢による支配を統一過程とするのはわずかながら違和感を覚えないわけでもないが、敗退するものが消失するかあるいは呑み込まれてゆくのは間違いない。勝ち残ったものが支配的なものとなるということであって、そんなに特別新しいことが言われているわけではない。個々人が店頭でどのチョコを選ぶかを繰り返す中で人気のない商品から消えていくのはごく当たり前の現象だ。そういう観点から見るなら、これは全く私個人の見解だが、今現在そのせめぎ合いの渦中にあるのが宗教と科学ではないかと思っている。端的に神という項抜きで世界は語り得るという地平に出てしまった科学を宗教の側から打ち負かすことはほぼ不可能だろう。瞑想や座禅など精神修養の技法としての側面には一定の実効性が科学的に証明されつつあるので帰依信仰とは切り離して扱うことは可能だろうが、それが教義教理の客観的合理性をも根拠づけないことは明白だ。「ありありとそんな感じがする」と「それはここにある」と事実として提示できることとは決定的に違うということだ。手順さえ踏めば誰もが例外なく認識できるのでなければ共有される事実とはならない。

 ここで再び冒頭の“「私たちは何を望みたいのか?」の設問に対して回答することに意味はあるのだろうか?”に戻ってみよう。利害や立場の相違が避けがたく浮上してくる人間の現実においては、ほぼ間違いなく全体意見の平和的一致など不可能だということになる。となると、この設問を人類社会全体がどうなってゆくのが全人類の総意としての願望となりうるか?という問い方とした場合、解は求めても無駄だということになる。この書の著者があるTV番組でこういうことを言っていた。「今の世界を作ったのは人間なのですから人々はそれを変えることはできるはずです。私たちが思いやりと協力の道を選ぶなら今より良い世界を作ることも不可能ではないのです」。少なからざる人々が気づいたのではないだろうか。ここに提示された一つの想定条件の途方もなさだ。“私たちが思いやりと協力の道を選ぶなら”。・・・・・またも盛大なやれやれだ。この条件想定には二つの問題が見える。「私たち」とは誰か?そして「思いやりと協力の道」がその私たちなるものによって選ばれるという光景の現実味だ。私はその余りの幻想性に立ち眩みさえ起こしそうになった。実に素敵な想定だ。だが、それは常に無限遠点へと逃亡しつづけるロマンティックなファンタジーでしかない。ここで彼の居場所はジョンのいた場所と重なるようだ。だが、それが見果てぬ夢であることはすでに多くの人々が気づいてしまっているとは言えるだろう。「思いやりと協力の道」を反転してみるとこうなるだろう。「憎悪敵対と戦いの道」・・・実に哀しく哀れな光景が内面世界にひたひたと広がってゆく。だがそれが、われわれヒトのあらゆるレベルで当たり前のこととなっている実態だ。日常的に軽い気分で頻用される“マウントをとる”。実にやれやれ的な言葉の風土だが、そこにわれわれのありふれた日常があることも確かだ。身近な誰かよりちょっと勝てることがって良い気分になる。こういう心理などとは無縁に暮らすことができる人格者はそう多くはない。ちょっと自慢したい気分みたいなことはわれわれの日々の日常なのだ。少しアゴを上げて相手を見下す気分。そういう日常的な戦場で争っているのがわれわれ人間の日々だ。随分以前、ラジオからこういう意見が流れてきた。“相手が返すのに困るようなところにわざわざボールを打ち込むなんて、テニスってなんて卑劣で思いやりのない競技なんだろう”。むろん、ジョークだが、面白いところを突いていた。裏を突く、フェイントをかけて(ダマして)相手選手を抜き去る、キーパーの手の届かないところにけり込む。サッカーだって似たようなものだ。だが、私たちはそういうゲームに熱狂する。そこに私たちの本質の一つがある。比べる、競う、出し抜く、陥れる、かく乱する、裏をかく・・・実になんて~こったい!のあり様だが、それが多くのヒトという生き物が抱える本質だ。そういう日常にまで徹底された戦争をどうやって超脱できるのか? 暗澹とするしかないだろう。誰彼に困るという次元の話ではない。われわれそれぞれが我が身を振り返ったときに容赦なく見えてくるヒトの現実。私も個人的にはジョンの残した歌が象徴するような思いの世界は嫌いではない。だが、それが常に無限遠点へと逃亡する幻想的願夢であることは認めざるを得ないだろう。ロマンティックな夢もいい。だが、冷厳たる現実は現実だ。いつ終わるとも知れない戦争が徐々に日常化しながら継続されている。そして日々落ちてゆくわれわれの関心度。それがわれわれの日々の日常的現実だ。

 ここで勝手に捏造した蒲郡の三位一体を思い出した(→“徒然なるままに物語-蒲郡の犯罪-勝手に蛇足-2”)。“法と人と絆”。ある意味、「思いやりと協力の道」はこれにも重なってくるだろう。法も絆もこの天体上における人間現象を土台として現象している。今回材料にさせてもらった書の著者がその中でこういう意味内容のことも言っているようだ。“歴史というものは、常に時代の当事者たちには予想もつかないような展開をしてゆくもののようだ”。ここに“今の世界を作ったのは人間なのですから人々はそれを変えることはできるはずです”をぶつけてみると明らかな矛盾に脱力するしかない。だが、この矛盾の中で彼は微笑を浮かべている。多分、そこにしか希望はないからだ。その微笑の奥の奥になにがあるのかは分からない。だが、希望を語る人は必要だ。多分それが非力な人々によって共有されるべきもう一つのフィクションであり物語だからだ。世界の水車は無垢無情無心にコトリコトリコトリと回りつづける。信じる信じないの前に私たちはそこに働く世界の法則のうちに生きている。全くヒデ~時代だ。・・・だが、それが私たちの現実なのだ。ちょっとしたいい気分からすべては始まっているのかもしれない。自分の中にも世界の始まりはある。腹を据えて日々を生きてゆくしかない。合掌。