“今日という日の閑話及題” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“今日という日の閑話及題”

 “彼らの悪しき振る舞いのほとんどは、意図的に人を傷つけるというより、不安に駆られた衝動的な反応ではないだろうか”。2015年The New York TimesのTONY SCHWARTZ氏のコラムから引かせてもらった。タイトルは『圧倒的な成功者は「無遠慮で嫌なヤツ」ばかり~ジョブズ、マスク、ベゾスを見ればわかる~』。

 朝のドラマに少々不愉快な青年が登場している。その態度を見ていて私はこう直感した。趙優秀な家系、一生勝てないような優秀な兄や成功者である父親。そんな一族の中で少々残念な位置にいる次男坊。そんな青年がヒロインに対してだけではなく周囲の人間たちにも殊更に侮蔑的だったりシニカルな態度で接している。冒頭に引いた一文で彼のことが思い浮かんだ。そこにあるやり場のないような不遇感に同情の余地などない・・とも言い切れないが、ハタ迷惑であることは疑いない。まず間違いなく、この青年が日々身を置く空間に充満している空気が彼をこういう人間にしてしまったのだ。傍若無人に振る舞う者たちの中にある脅えや不安、ここにあるものも悪の温床と言っていいだろう。ただ、その保持する絶対権力とその結果的な目覚ましい成功がその悪を覆い隠しているのだ。われわれのような凡俗にはやれやれ的な人物だが、世の中にはこういう御仁たちを殊更に称賛する人々も結構いる。少々不思議な光景だが、よく見ていると分かってくる。彼らも結局同族なのではないかということだ。そのスマートで柔和な笑顔のベールの裏に隠されている暴力性や残忍性、それは同じ臭いを漂わせている。それに気づくとその柔和な微笑が底知れぬほど冷ややかな冷笑にも見えてくるから・・・正直恐い。

 頭脳明晰な超利口な方々には、目の前の課題を前になにをどうすればその理想の結果が得られるか?その合理的な答えがありありと見えているということだろう。そして、そこに至るもっとも効率的な近道も見えている。だから、しゃにむにその道を突っ走ってしまうのだ。それに追いていけない落伍者たちを平然と振り落としながら。

 一つの価値観、一つのビジネスルールというカルチャーの中においては如何に正しくともそれを相対化する外からの目にそれはどう映るのだろうか? 知恵の回らないわれわれ凡俗にはそういう高貴な方々の頭脳の中でなにが起きているのかなど到底計り知れようもないので、その足りないものを体感や皮膚感覚で測るしかない。そして、まざまざと知ることになる。そこには千尋の谷が口を開けている、と。相互理解の極めて困難な疎隔関係。しかし、われわれは少なくともこれは知っていると言い切ろう。人は数ではない。単なる数字ではないということだ。そして問おう。その目覚ましい達成は一体誰のためのものなのか!?と。私のごく簡素の頭脳と思考力とお粗末な視力には、そこにあるものは壮大な倒錯の光景としか見えない。恐らく、またも冷笑を浴びせられのがオチなのだろうが、一言くらいは言い返しておきたい。人間個々は例外なく絶対的等価の存在値にあるということだ。“Imagine all the people Living for today”。この人も名だたる成功者の一人だっただろう。だが、例外的にわれわれの隣に立ってくれていたような気がする。梯子段を上って覗いたちっぽけな虫眼鏡がその視界を広々と開いてくれた所為だろうか。目覚ましい達成や成功ではなく、みんなが日々笑顔を交わし合えるだけで他にはなにもいらないような世界を望む道だってあっていいということだ。私の目には形を変えた戦争のようにしか見えない。物騒至極なことだ。言葉が過ぎたかもしれないが、そう思えて仕方がない。そこにあるものと専制主義的な国家との違いもとんと分からなくて困っている。といって、丁寧な解説などはご無用に願いたい。多分大いに疲れるのと同時に果てしもなく暗い気持ちになりそうだから。合法的な天才的暴君?・・・・・やれやれ。合掌。