“うずくまるサルの呟き” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“うずくまるサルの呟き”

 「私のやっていることは終わりの始まりです。こんなことをつづけても未来はないでしょう」。インフルエンザのワクチン接種で訪れた病院でたまたま開いた週刊誌の中に発見した言葉だ。正確ではないだろうが。冒頭の言葉を言い終えて医師が聞き手の女性歌手に向かって静かなそして少し淋し気な笑みを浮かべたかどうかの記述はなかったかもしれない。だが間違いなく彼はあの滋味あふれるしかしかすかな哀しみを湛えた独特の微笑を浮かべたに違いない。私は順番を待ちながら腕を組んで考えた。ここにあったものは勇気だたのか? それとも使命感だったのか?・・・・・。それに答えを見つけても意味はあるまい。彼が凶弾に倒れ、敢え無く旅立ってすでに久しい。そして、彼が営々とやりつづけた事業も時とともに朽ち果て荒廃し乾燥地帯の土色の風景の中に溶け消えてゆくのだろう。清潔な水を引き、農地を拓き、できる限り健康的な暮らしを取り戻す。一人の医師として現地で行き着いた彼の医療が目指すべき道がそれだった。病気を治すことばかりが医療ではない。それよりも前にまずまともな生活環境を建設すること。どこかマザーの発想を思わせる。多分魂の型が同じなのだ。言うなら“シジフォスとともに働こうの会”だろうか。多分、その99.9%が正しいのだ。人間という生き物の極北にある正しさと言っていいだろう。結果を考えているヒマに今目の前にある課題に飛び込め! 人が苦しみの声を上げているのなら四の五の言う前に駆けつけて手を差し伸べろ! やれやれ、もっとも尊敬すると同時にもっとも恐ろしく迷惑な存在だ。こちらのあり方を容赦なく照射し、限りなくこちらの自己評価を下げてくる。だが、やはり凄いことだと思わざるを得ない。すべてを見通しながらそれができる。こういう言い方はどうかとは思うが、選ばれた人でなければ発想もしないし、できもしないことだろう。所詮結果は分かっていて無益なのだからなにもしない。そう考えてしまう者は多い。それが必ずしも怯懦や怠慢の言い訳だけのものとは限らないにせよ。だが、驚いたことに彼らはそういう者たちを決して笑わないし、叱りもしない。残念には思うのだろうが、人間という生き物だけではなく宇宙そのものがそういうものなのだと分かっているからだ。誰にもそれなりの考え方があり、理由があり、説明があり、論理があり、根拠めいたものがあり、そして誰もが自分を自分自身の思い通りには動せるわけではない。この真理は、ある意味すべてに当てはまり、苦笑するほど真実なのだ。“私たちだって、結局こうしてしまう自分をどうにもできないのだから”。やれやれ見事な認識のゴールだ。誰もが自分の思い通りとはいかない。だから、徒に目の前のその人を裁くことなく、黙って静かに笑って受け止める。多分、そういうことにあれこれ感応し思案することに費やす時間さえ惜しいのだ。実に恐れ入る。

 こんなことをつらつら考えている内ある考えが浮かんだ。人間世界の現実というものも人間の思い通りにはいかないものなのだろう、と。誰にも考えがあり、理想があり、夢がある。だが、現実はその総意でもないし、最小公倍数でもないし、最大公約数でもない。現実というものは言うなら社会生物学的に展開している。自然的多数決、自然的争奪戦、自然的権力闘争。誰のものでもない現実という結果状況が粛々と持続しつづけ、飛躍し、変転し、終息し、爆発し、さらに展開してゆく。どこかの誰かがその権能において決めているわけではない。全体のうごめきが結果として現実を決めながら動かしている。われわれは参加者ではあるが、決定者でも傍観者でもなく、現実展開の内部当事者としてそこに幽閉されたかのように存在している。翻弄され、小突き回され、侮辱され、ときには不相応に称賛され、そして、崖から突き落とされる。まるでどうにもならない異常気象の中で終わりなき日常を送っているようなものだ。今しも世界の方々では怪しげな内向きの動きが活発になっている。きな臭いことこの上ない。このパンデミックという全人類が共有する巨大危機の中で、むしろさらに分断と敵愾の泥沼がよりどろどろになりつつある。このどこに明るい見通しがあるだろうか!? だが、もはや私自身怒ってさえもいないというあり様だ。むしろより冷静になっていると言っていいかもしれない。われわれが如何なるわれわれであったのかの答えがもうすぐ発表されるのかもしれないのだ。ちっともワクワクなんかしないが、興味も関心もある。この地球という天体に生まれた高度知的生命体の成績表。・・・やれやれ。

 もはや民度という用語も過去のものだろう。こう言い換えるべきだ。生命種度。ふと、オリンピックを語るフレーズのことが脳裏をよぎった。“より速く、より高く、より強く”、そしてどこかの誰かが後から加えた“より美しく”。打ち終えて声を立てずに少し笑った。しみじみ過ぎ去るものを見送るような気分に襲われたからだ。私は、これにもう一語加えたい。情けないほどありきたりだが重要な一語だ。“より優しく”。どこのご家庭の子供にも分け隔てすることなく同額の支給をする。未来のために! 実に美しき平等の精神が燦然と輝きながら遠い西の空に消えていった。照れ臭かったのだろうか? 私にはよく分からない。今こそ未来に向かって総合的俯瞰的に社会の再構築を考え抜くときではないだろうか!? かなり不満げな大学生たちとちょっと嬉しくもないではないが十分に理解し切れなくて当惑気味の中高校生たちの表情からなにを読み取るべきなのか? そこに大人たちへの陰りない称賛と感謝の色があればいいのだが。・・・・・。私の耳には通奏低音のような崩壊と崩落の音が聞こえている。そしてそれに絡み合うように響き渡るシジフォスの呻き。どうだろう。それだって、いつかは終わるのではないか? 国連で演説した連中と同じように。今必要なのは一つ、天与の奇跡だけだ。夢想に終わるにせよ。非力・・いや無力なわれわれにもはやなす術はないのだから。合掌。