“今朝のつづき” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“今朝のつづき”

 ある作家における三位一体を想定してみた。即座に浮かんだのが“エロスとタナタスと美”という3点セットだ。この聖トライアングルを眺めているうちに私の脳裏に浮かんだのは、3本のメビウスバンドだ。一捻りされて接合された3枚の帯はまた互いの空洞をくぐり合いながらトライアングルを形成している。生と死、生と美、死と美がそれぞれ表裏を成して輪となり絡まり合う。実に示唆的なイメージだ。私はこれを一本のメビウスバンドに変換できると直感した。色/空の帯だ・・だが、まあこの話は後のことでいいだろう。さて、この聖トライアングルにも当然ように第四の位階はある。それは他でもない“ナルシシズム”だ。これで正三角錐は完成する。むしろ彼にとってこの第四の位階こそがある意味その最頂点のようにも見える。強烈な皮肉・・なのかもしれない。どうしようもなく自己に覚える劣等性への嫌悪とそれとは相反するような熱い自愛(自己賛美自己陶酔)が負けずにゆるぎなくある。まるで虎に変身した詩人みたいに。この矛盾や裂け目と終生戦った人という印象が強い。むろん私の勘だけの勝手な想像にすぎないが。しかし、よくよく考えてみれば、こういう構造は多くの人々の中にもあるものなのではないだろうか。そう思えてならない。自己愛というものは自尊心と呼ばれるものとほぼ同じものだ。生物個体が親世代から分離発生する過程で埋め込まれた本能衝動の心理的裏打ちとして誰もが持つものだ。ヒトのような自意識を有する生物個体が生きるということは、自分を生きるということに外ならず、そういう自己が生きてこの世界に存在しつづけているということが無条件に大前提となることは当然だろう。だが人は、ときには自己自身を肯定しそのままを受け入れることができず自らの意志で自分を消し去ろうと考えることさえある。それは別の見方から言うなら“自分を生きるという場から立ち去る”ということだろう。時折襲うそういう誘惑から人が逃れることができているのは、生命個体としてここに生み落とされたときから、そもそもちょっとした気持ちの弾みで個体が自滅死してしまうような作りにはなっていないからだ。それほど生命がそこで持続して現象しているということの牽引力は強力なものだということだ。そこで輝くものの一つが美だ。美とは、自意識を有する生命が日常的に身を置く世界との触れ合いの中でその都度即応的に現象しつづけている感覚評価のドラマ的展開としてやってくる。大好物の料理が口に入った瞬間に覚える快感、その生理刺激の強度が辛いことのあれこれを一瞬であれ忘却させる。そういう瞬間が次から次へと入り込み積み重なるうちに人の中に居座っていた死への誘惑の水位は徐々に下がってゆく。まあ、私たちの日常とはこんなものだろう。自分を生きるためには、常態的な波立ちはあるにしてもふとしたことでいつも自己現状の達観的受忍へと振り戻るような構造になっているということだ。ある意味それは自分が好きとか嫌いとか以前の問題と言っていい。そこには無条件に尊重し保持すべき自己という存在と直結した向き合いがあるということだ。そしてこの自-自向き合いという構造はそのまま世界の一部としての自己との向き合いでもある。水面に映る自分の姿に見とれるという光景はそのまま世界が自分に見とれているという光景でもあるということだ。

 色即是空とはつまり、それを〔ある/ない(=生/死)〕という図式で見ようとする者にとって世界はあってないようなものだということだ。常なる千変万化など掴まえようがないだろう。そこにありありと見えているつもりのものたちすべてがいっときの仮の姿にすぎないと見通してしまう目も世界の自意識の中で起きている表裏一体のできごとだ。これはこう言い換えることができるだろう。私たちの自意識というものは、それぞれがこの世界内で特権的に占有する位置に発生した世界の自意識の仮の現象であり、その一つ一つは川面に浮かぶ水泡が瞬時に弾けて消え去るように儚いものにすぎないということだ。それはほぼ最初から空無にほぼ等しい。

 エロスというものは種の永続性とつながり、タナトスは生命個体の必然の運命を枠づけている。それは、個的生命現象を生命現象そのものと見ればそう見え、全体を構成するごく微細な一部分にすぎないとみればそうも見えるということ。種の目で見れば個体は均一な現象の集合体にしか見えず、個体の目から生命(持続する種)そのものを見つめれば如何にも危うい奇跡的瞬間のつらなりにしか見えない。

 生命の永続性を象徴する美的形象と儚い一瞬のきらめきの事件としての形象。そこに私たちヒトの懊悩がある。この聖トライアングルのフレームを通して、母に抱かれた丸々と健やかそうな赤子と母体から生み落とされると同時にこの世から旅立っていった嬰児とのドラマを見つめるとそれはまったく同じものなのだと分かる。生と死は同じドラマなのだ。私たちはめぐりめぐる物質とエナジーという複雑精妙な大河ドラマの中に逃げようもなく生み出されたアブクの一粒一粒にすぎない。しかし、その“すぎない”は世界大だ。あらゆるものが“あらゆるもの”という言い様の次元を超えて一つの現象の渦としか見えぬ次元に立てば、すべては一つの壮大な交響曲へと収斂されてゆくはずだ。作家に限らず、私たちは誰もが“納得”を求めている。中でもあまりの不平等に不満がある。だが、それについて誰もが例外なく納得し得るような説明などありうるわけがない。個々バランバランの不平等状況というものは絶対的平等を貫徹する世界法則がもたらすものだ。多様性を欠く絶対平等の世界などすでに死んでいる。あらゆる格差・分断・競合・優劣などなど、世界におけるあらん限りの多様な現象の祭りのダイナミズムこそが世界のエンジンだからだ。そうやって世界は永遠の今という無時間制の中で飽くことなく現象しつづけている。その前には、われわれの理想論やら理念やら倫理やら価値論など吹けば飛ぶような儚く頼りないものに過ぎない。だが、それなくしては生きていけないのもわれわれヒトだ。虚空にあらまほしき世界を幻視するからこそわれわれヒトは明日のことが考えられる。その虚空こそが“未来”だ。ヒトは今を、いやそれ以上に明日を生きている。未来の同義語は希望であり夢であり理想だ。大したことではない。少しでも良くなるように。それだけのことだ。彼の地で一人の医師の姿が塗り消されたようだ。そうやって砂上の楼閣は波にさらわれてゆく。だが、誰かがまた黙って砂を押し固め積み上げ始めるのだ。私たちの希望とは決して終わらない明日という生の輝きに向かって歩いてゆくことであって必ずしもゴールすることではない。落胆や幻滅にたじろぐことはない。むしろこう考えよう。落胆や幻滅こそがカンフル剤でありバネなのだと。ここは相変わらず可笑しな具合だ。だったらするべきことがある。明日を変える。少しでも明るい方へ。そうではないか? 作家は、老いてゆくという生命現象の約束が我慢ならなかったのかもしれない。だが、世界と私たちの間に約束事などなかったのだ。私たちの意志というものは、私たちと世界とのダンスにおいてはほんの片隅のささやかな事情にすぎない。私たちは、私たちがこの世界という迷宮のただ中で如何なる存在いや現象なのかについてもっと知るべきではないだろうか。少し角度を変えて眺めてみれば、そこにあるのはそれぞれが特別に例外的であるような無限多様の花畑に咲く一輪一輪の花としての私たちの姿だ。二度と同じ花は咲かない。それぞれにそれぞれならではの悲喜こもごもがある。つまり私たちはそういう世界にそういう世界を問える少々珍しい生命種として暮らしている、ということではないか? 乱暴に世界を自分の望み通りにしようと目論んでも所詮は無理な相談だったのだ。もう少し色んなことを受け入れて流れに浮かぶうたかた的境涯に遊んでもよかったのではないだろうか。などと考えてしまった昼下がりになった。先日、ビンの中で凍った氷を取り出そうと顔を真っ赤しているヤツに出くわしたので言ってやった。どうだろうお湯でも入れてみたら。少し形を変えるだけで通れなかったトンネルを抜けられるかもしれない。受け入れがたいこともずうっと受け入れやすくなるかもしれない。哲学って案外それだけのことなんじゃないだろうか。合掌。