“知り得ないという幸せ” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“知り得ないという幸せ”

 “理不尽の圧倒”。久しぶりに思い出した。言い換えれば“そこのけ!そこのけ!横車が通る!”ってところだろうか。可笑しな理屈や主張が権力者の口から堂々と吐かれ、如何にも後付けで書き換えられたとしか思えぬ、実しやかでもなんでもないエセストーリーの無限再生。このやれやれ的状況が新型なんとか君の暴れ回る光景に重なると世は絶望色一色に染まってゆく。ある種の感嘆の吐息すらこぼれそうになるから笑うしかない。試練試練と自ら言いながら、大概にしてくれよと思わないでもない。私たちのこのずるずると押し込まれつづける敗退の連続に未来はあるのだろうか? 確たる根拠をもって“ある!”と言い切れる自信などあるわけがない。ここまであからさまな理不尽の圧倒が白昼堂々まかり通るのだ。この先正義の出番などあり得るだろうか? 中でも対抗するべき人間集団が形成されていないという恨みがある。むしろこの事態こそが絶望色の一方の正体なのかもしれない。ウソに勝り得るホントが存在しない、ということ。翻り見れば、私たち自身の日々が偽りまみれなのかもしれない、ということでもあるのだろう。先日読んだ本の中に引用されていた詩の一節だ。“手をこまねいて見ていたのか / その時 プラットホームにいた大人たち”。目の前で起きている惨劇を無表情のまま黙って眺めつづける人間たち、あるいは横目に見ながらそそくさと足早にその場を去ってゆく人間たち。殊更に責める気もその資格もない。それを他人事として指差して厳しく糾弾できる人間がどれほどいるだろうか? むしろこう考えるべきだ。それが私たちヒトの隠しようのない現実の姿なのだ、と。私たちに可能なのは、そういう惨劇が現実のものとなる前の段階でできることをしておくことだけなのだ。私たちが今唖然としつつ見ている茶番劇は、実はその半分は自分たちも関わった台本を元に演じられている。腹に据えておくべき重大な一事だろう。私たちも加担者であるという事実。実に健康に良くない怒りを健全なものに変換し得るとしたら、それは衷心から沈思自省するという態度だけだろう。腹は立つ、だが、そこに湧くエネルギーは新たなものを新たに築くことに振り向けるべきだ。その道がまだ私たちに残されているのかどうかは分からない。それほど私たちの状況と関係性は良くない。だが、今までのやり方を根底から変えない限り希望がないことだけは確かだろう。仮に、今更遅きに失しているのであるにせよ、幸運なことに私たちにはそれを知る由もない。未来への希望というものにはそういう可笑しなところもある。歩けるうちは歩いてゆくしかないのだ。合掌。