“起きていたこと 起きていなかったこと-4” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“起きていたこと 起きていなかったこと-4”

―“生徒は物じゃない!人間だ!”。柊先生のこのセリフがすべてよね。

「至極・・・というか、笑ってしまうくらい、いや恥ずかしいくらい当たり前すぎて。・・・・・これを絶叫しなければならない。あまりにも哀しい時代に胸を突かれる思いでした。生徒たちと同様、ノンキャリのお役人だって物ではなく人間です。人の子です。それを路傍の小石でも蹴飛ばすかのように滅ぼしておいて平然としている。このような、今ここでなにが起きているのかを象徴するような事実一つが全体状況のすべてを物語っている。そういうことではないかと思います」

―まさに窮死だったわ。あの柊先生の全身全霊をかけた叫び、あの叫びを通して訴えたいことのすべてがずしんと伝わってくるような象徴的な場面だった。

「虐待事件の方に話を戻しますが、様々なところで散見されるのが“子供を救う”とか“どうして子供の生命を救えなかったのか!?”という語句や表現です。それ自体に問題があるとは言いませんが、もう少し視野を広げてものごとを立体的に見る必要はあるだろうと思います。対症療法的にとにかく子供を救い出さなきゃという視点や立場からだけで議論したり対処していたのでは、いつまで経ってもこういう危機的状況からは脱却できないだろうと思います」

―その親もまた救われなきゃいけない人間なんだということね。

「罪を憎んで人を憎まずという言葉もほぼ死語化しつつあります。まるで鬼か悪魔のように言い募って、そこにも人間がいるのだという血の通った向き合い方が失われつつあります」

―なんだか、味方じゃなきゃ敵だ!みたいな極端な空気と重なってるわね。

「内外を問わず、憎悪とか怒りが躊躇なく噴出される極めて危うい精神風土へと変貌しつつあることに強い危機感を覚えます」

―多分、そういう空気と一人の人間があんな精神状態に追い込まれていったということとは無関係じゃない。

「これまでの社会が内在させていた緩衝材のような遊びの部分が急激にやせ細りつつありということも大きいでしょうね。精神的豊かさより金銭欲や物欲に偏重してしまったことが最大の原因だろうと思います」

―最近、かつての炭鉱に“スカブラ”という仕事というか役割があったというのを知って考えさせられたわ。言うなら浜崎伝助さんみたいなものね。地底でのキツイ肉体労働に勤しむ炭鉱夫たちの精神的な部分をサポートするのが仕事で、時計を見てもうすぐ昼飯だよとか、もうすぐ今日の仕事は終わりだとか、合間合間に色んな冗談話を飛ばして坑道の中の空気を和らげるの。その後時代が移って、そういう働きもしないでただブラブラしているだけのヤツなんかムダだからということで坑道から追い出したらどうなったと思う? そう、私たちが推測する通り、坑道内は一挙に殺伐として能率は極端に落ちたそうよ。それでスカブラを復活させたかまでは知らないけど、如何にもありそうな話。

「物資的には豊かになったけど、人々の心の中は殺伐としてゆくばかり。無事で済むはずがなかったということです。そういう文明の濁流の中で様々な現象や事件が起きているのだということです。こういう視点からものごとを感得するならそこにある病理全体という捉え方は欠かせないだろうと思います。一方の当事者に対してもそういう人間として向き合うという関り方もしなければ、今直面している課題と真正面から向き合っていることにはならないだろうと思います。特殊な個人や例外的な特異な事件という認識に留まる限り、先への見通しは立たないでしょうね」

―そういうことを熱心に説いている人も中にはいるけどマスコミの多くは相変わらず責任者の追及とか犯人探しばかりに集中している。

「確かに、日々深刻化しつづけている危機と向き合うのですから、まず有効な緊急対策を議論することは必要だろうと思います。しかし、こういう事態全体を俯瞰するところからも議論を深めないと根本的な処方は見出せません。誰がではなく、なぜそれは放置されたのか? なぜそれは気づかれなかったのか? そもそもなぜそこでそんな惨劇が起こってしまったのか?」

―そういう話は表立っては聞こえてこないわね。

「結論を先取りして言うんですが、私はこういうことではないかと思っています。社会の隅々にまで広がった病理がしわ寄せ現象の過程でもっとも弱いところで個々の事件として発現しているのだということです。翻って言うなら、私たちも実は当事者なのだということでもあって、これはもっと自覚されなければならないことではないかと思います。少し思い切った言い方をするなら“それは起こるべくして起こっている”という構造的直感から逃げるなということでしょうか。この社会の上層部から下方に向かって、不当で理不尽な圧力(=暴力)のツリー構造が覆いかぶさっている、それが弱いところを襲い様々な事件となって私たちの前で噴出しているということです」

―酷いことをする人間に怒りまくって視野狭窄や思考停止を起こしてたんじゃ本質的なものを見失うばっかりでしょということだ。

「そう思います。その奥にあるおぞましい構造的病理が背景となり土壌となって様々な現象や事件が起きているということです」

―でも今という時代ほど、そういう見方や向き合い方がもっとも難しいというか巧妙に欺瞞される状況にないわね。そこにこそ最大の病原があるような気もする。

「謝ってすむのなら警察なんかいらない!みたいなことを言いますが、白昼堂々国のど真ん中でウソが連発されてまかり通っているんです。そもそもここにはそういうご大層な社会機関なんか存在しているんですかッ!?ってことですね。呆れ果ててものも言えません!」

―柊先生になってない?

「でもただ怒って絶叫するだけではだめなんじゃないかと思います。最近どこかの番組でシツケと虐待の違いってどうなんだろう?って議論しているのが聞こえてきました。あなたならどう答えます?」

―う~む、どう言えばいいのかな~?

「私はごく簡単なことだろうと思いますよ」

―どういうこと?

「そこに怒りがあるかどうかだけのことなんです。この両者の間に“叱る”という言葉を置いてみると分かりやすいかもしれません。子供が良くない悪戯をしたから叱る。叱るという行為は一見すると怒っている、つまり怒りの感情がそこで噴出されているかのように見えます。しかし、それは正しくありません。心を鬼にしてという言葉を思い出せば分かるように、正しく叱るということをしている人たちは、怒りという感情に身を任せて子供に対しているわけではありません。ちょっとキツイいい方になるのは、すぐその行動をやめさせた上で、言い聞かせるためです。だからわざと恐い顔をする。しかし、その一連の言動は叱る側の個人的な怒りに発するものではありません。あくまでその子の将来を思い、周囲への申し訳のためです。順々となぜ病院の待合室のような場所で走り回ったりしてはいけないのかを語り聞かせ、人としての振る舞いの骨格を築く手助けをしてやる。それが叱るであり、シツケです。そこに怒りみたいな激情など本来あるはずがないんです」

―ま、早い話、そこに愛があるのか、あるいは反射的な怒りみたいな自己本位の感情だけが先立っているのかということだ。

「自分の思い通りにしたいというのと、それが血を分けた自分の子供であれ目の前にいるその人は一人の人間なのだという心の構えが出来ているのかどうかの違いで、そこには深い溝があるんだろうと思います」

―大人がすでに大人とは言えない段階にあるってことね。

「ま、他人事じゃないのですが、そういう時代的な病理のようなものがそこにあることは疑いないと思います」

―なんだか、絶望的な気分になってきた。

「実際酷い状況だろうと思います。明るい見通しはありません。克服してゆく方途も今は見えてきません。結局歴史の展開力と人間という生き物の可能性や底力を信じるかどうかということになるのかな」

―ひょっとしてAIが道を教えてくれる?

「それもゼロではないかもしれませんね。人間同士で議論するから人間ならではの感情的問題が邪魔して話が巧く進まない。その、ある種無機質で機械的な第三者的な分析の結果ということなら案外つまらぬ対立を超えてそれに従うということにならないものとも限らない」

―やれやれ、ここでもVAR? でも、それで誰にとっても悪くない平和的な社会が実現できるなら、それはそれでいいのかもしれない。ちょっと情けないけど。

「でも、人間にとってもっとも厄介なのが、自尊心とか意地とかプライドみたいなものだとしたら、そういう方向もあっていいかもしれないね。ちょっと考えれば分かることだけど、無機質だ機械的だというけど、AIという存在も元を質せば人間そのものなんだし。人間の脳に宿ったものが物として外化されただけのことだからね」

―最後にまた物と人間が出てきたわね。

「所詮この区別だって、本来ありもしない線をわれわれヒトが自己都合で引いただけのことだから」

―じゃ、物じゃないんだ!人間なんだ!という絶叫はどうなるわけ?

「こう言い換えればいいでしょうね。人間とはつまり生命ですよということです。儚い儚い生命なんだということです。そこが機械とは違う」