“再掲載ー「どこにでもある落とし穴について-2016.10.17」” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“再掲載ー「どこにでもある落とし穴について-2016.10.17」”

*再掲載です。“殺したがる者たちと戦って下さい!”発言に端を発する炎上騒動をめぐって。読み返すまですっかり忘却していた。しかし、それにしても失言を謝罪する気持ちの勢いがあまって“(こんな失言してしまう)自分が死ぬべきだ!”みたいな発言になったのもいただけなかった。善意の暴走。いやはや、実に困ったものだ。

 

〈“どこにでもある落とし穴について-2016.10.17”〉

 どちらかと言えば対岸にいる人だとは思っていなかった、そんな人の犯した失敗がとんだ騒動を巻き起こしているのを見るのは辛い。相当に辛辣な非難の声が沸き上がっているようだ。無理もない。今日のところは、根本問題ついての見解はとりあえず脇に置いて、失敗そのものを構造的に考えてみたい。まず第一点として指摘しなければならないのは、そもそもその発言が広く一般社会にまで広がる可能性についての自覚があったかどうか?だ。政治家にもちょくちょくある失敗だが、同じ考え方の人々が集まる会合だからということでつい気が緩み一般には容認されがたい発言をして広く社会全般からの批判に晒されるパターンだ。よほどの内々の会合でも外に漏れる可能性を考えて慎重に発言する、それが公的に責任ある立場にある者や社会的影響力のある著名な人間の常識的な心構えだろう。今回の騒動の最大原因がここを疎かにしたことにあることは明らかだ。ごく身内の会合でならその場だけのこととして許容されても不思議ではない発言だったかもしれない。だがそれでも、こういうことに敏感な者が同席していたなら、直ぐ様こう言って窘めたところだろう。“こういう場だからまあよかったのですが、そういう物騒な発言は今後努めて為さることのないように願います”と。彼には、彼女の発言の趣旨が、今回批判の声を上げた人々のことなどまるで念頭になかったことは十分分かっている。だが、それが一般社会に聞こえたとき、彼女自身の意図とはかけ離れたところで解釈され、一騒動を引き起こしかねないことも予期したのだ。それは第二の問題点に起因している。それは、この発言の構造自体がもっていた問題だ。恐らく彼女の中では、今回問題とされた制度とともに憲法9条や安保法制などをめぐって内心に逆巻く怒りのようなものも強く意識されていたのではないかと推察される。だから、あのような暴言じみた言い様にもなったのだろう。だが、この発言が世に聞こえ、彼女自身が微塵も予期していなかった方向からの轟々の非難の声を呼び起こしてしまった。さぞやご自身も驚いたことだろう。だが、その多くの責任がご自身の軽はずみな発言にあったことは否めない。冷静に考えれば、関連する国家機関やその職にある者たちに“・・・したがる”という意識などまず無いことは明らかだろう。多くの者たちは、担った職責に応じて法として定められた枠の中で粛々と職務を遂行しているだけだ。その上に位置する法の成立存否に直接責任を負う者たちにしてもよほどの例外を除けば“・・・したがる”という意識の者などごく少ないのではないだろうか。どちらかと言えば、法を動かすかどうかへの社会全般の空気を感じ取りながら判断している。そうなると、言葉の字面だけを、発言全体の論理構造から見る限り、暴言とも取られかねない言葉で名指しされていると考えられるのは先に挙げた者たち以外のごく限られた立場の人々ということになる。発言そのものの品位の問題もあるが、最大の問題は、自己の発言の構造が持つ意味合いについて吟味が足りなかったところにある。しかし、この点についても、よくよく考えてみれば、そういう立場にある人々とて、その意識が“・・・したがる”という乱暴な断言とはそぐわないものであることは明らかだろう。自分たちの身を襲った取り返しのつかない痛恨の事態に対して、現制度下で最大限の償いをして欲しいと願っているだけだ。この強い思いが、必ずしも“・・・したがる”という表現とは重ならないものであることは明白だろう。こういうふうに見てくると、今回の騒動の根にあるのは、怒りに任せた言動の陥穽とも言うべきものではないだろうか。こういう失敗一つが、例えば一つの運動が積み重ねてきたものを一挙にご破算にすることだってあり得るのだ。私自身は、この制度について今だにどちらの立場とも決めかねているので明確な態度は表明できないのだが、一つ言えると思うのは、ここまで重大な問題は、広く社会で冷静に慎重に議論し考え抜くべきだろうということだ。今回の騒動については、彼女自身にも大いに責任も原因もあることだ。猛省が必要だろう。ともあれ、“岡目八目!”、人は他人の穴には気づきやすく、己の盲点には気づきにくいものだ。他人ごとではない。そこに悪意などないと自分では思っていても、自己の発言の構造にも疑いの目は持つべきだろう。と同時に、善意(のつもり)の暴走による思わぬ失敗を犯す可能性についても心に刻んでおく必要はある。なにごとであれ、感情的に衝突し激しい言葉を投げつけ合うことに良いことは一つも無い。どれほど隔て合い争い合う関係にあっても、歩み寄り許し合い慰め合う道はあるはずだというところから始めるのでなかったら、その先に明るい未来などあるはずがない。今回の騒動にも“平和の本質”の問題がある。誰が本当に正しいのか?から、どの道が誰をも幸せにするのか?に向かって!ということだ。限りなく難しいだろう。だが、怒りとそれが激しくけしかけるものに身を委ねてしまったらその先になにが待っているのか?・・・考えて欲しい。合掌。

 

*あれから2年。様々なことがあったなどと感慨深げに言う気にもならない。それほど酷いことが起き、露見し、暴露され、真紅の大ウソが大手を振ってまかり通り、白々しいもの言いが横行し、大勢の人々が窮死し、横死し、被災死した。今はもう2年前のように丁寧に書く気にはなれない。

 今朝は少し蒸し暑い感じだ。だが、北からは降雪の噂さえ聞こえてくる。季節は着実に交代中だ。暴走は困るが、彼女のような存在は大事だ。これからも私たちにとって希望の灯台として発言しつづけて欲しい。ただ、できる限り慎重を期されるよう願いたい。昨夜は、また一つ若返った日本サッカーがあのウルグアイを倒した輝かしい夜だった。実に爽快な勝利だ。だが、沸き立つような喜びももう冷めた。それほど、2018.10.17って~時代は酷い。まったくなんて~こったい! だがそれでも私たちは今日を生きる。負けぬこと! これも大事な灯台だ。ご健闘を! 合掌。