“荒涼とただ荒涼と吹き抜ける風” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“荒涼とただ荒涼と吹き抜ける風”

 失われた・・・いや、奪われたもの、それも最大のものを失念していた。奪われたのは、口や手足ばかりではなかった。社会や世間といったものへの、漠としたものであれ“信頼”というものも失われたのだ。多かれ少なかれ、今後私たちは、慢性的な猜疑心と警戒心を抱えたまま、張り巡らされた透明な柵の中で漠と薄暗い不安感に苛まれながら暮らすことになる。そして、さらに増すことになる孤独感や孤絶感。私たち市民の日常のど真ん中に打ち込まれた“分断と断絶の楔”。集まるということが恐い!・・・・・・・。なぜこんな事態を座視できただろうか???

 辞書に残された“仁”の文字はなにを意味し象徴するだろうか? 是非とも辞書を引いて感じ入って欲しいものだ。それが“鮮し”と言われている。この“すくない”は、“まあ少ないよね”みたいな呑気なものではない。“滅多にあったもんじゃない!(「必ずしもゼロとまでは言い切れないが」に近い)”という極めて否的なものだ。もう一度“仁”という文字を目を見開いて確認しよう。医も政治もまずは“仁術”でなければならない。“仁、義、礼、智、信”。筆頭にくるのがこの“仁”、そして二番目の“義”こそ“フェアの精神”だろう。しかし、義はすでに辞書を後にしている。言葉たちが去った後の白い真っ直ぐな道をひゅ~ひゅ~と塵埃を巻き上げながら風が吹き渡った昨日の夕刻、象徴的な映像が全国に向かって空しく流された。全身を毒が駆け巡る! 実に身体に悪い日々ではある。方々もくれぐれも身をお労りいただきたい。合掌。