“焚くほどは風がもてくる落葉かな-4” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“焚くほどは風がもてくる落葉かな-4”

“安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから”、有名な碑文だ。安らかな眠りというフレーズが必然的に呼び出してしまった。この文言は未だになにかと騒がしい議論の中にある。それに決着をつけようなどという野心があるわけではない。ただ、率直な存念を述べてみたくなっただけだ。端的に言おう、私は、その曖昧さにこそこの文言の可能性があると考えている。これに限らず日本語そのものが、主語が曖昧だのなんだのと揶揄されがちなところがある。しかし、それと原爆死没者慰霊碑に刻まれた文言とは直接関係ないのではないかと私は考えている。このあたりのことは、余白だとか行間だとか余韻だとか、日本文芸の特異性として方々で言及されているからそちらをご参照いただきたい。この碑文に主語が無いのは、まさに文言の持つ意味を限定させたくなかったからに外なるまい。言い換えれば、読む者がどう読むかによって変化する。そういうものとしてそこに刻まれたということだ。“私は”と読むか、“私たちは”と読むか、 “私たち○○人は”と読むか、“私たち人類は”と読むか、まささに千変万化。ある意味、読む者の人間そのものを量り映し出すといってもいいだろう。その度量、その深さ、その高さみたいなものだ。だから私は、この碑文は、このままでいい、これでいいと思っている。この碑文は、すでに取り返しようのない出来事の罪科を断罪する目的で刻まれたものではない。これを思い立った人々の念頭にあったのは、底知れぬ悔いであり、慟哭であり、懊悩であって、確かにその一部には痛憤もないではなかっただろう。だがそれは極力抑えられたはずだ。この碑文の主語が、特定の国や都市の国民や市民であるのなら、そもそもこのようなものを仰々しく建立する意味などなかったのではないだろうか。この慰霊碑の前に立つ誰もが胸の内で当たり前のように“私たち人類は”と読む日がくることを切望するのでなかったら、そもそも“繰り返さぬ”という誓約などになんの意味があるだろう? 強いられるのでも、命ぜられるのでもなく、自ら心の中で選び取るからこそ花開く。だからそれは敢えて刻まれなかったのではないか? 合掌。