“♪ 風の中の~す~ばる~ ♪” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“♪ 風の中の~す~ばる~ ♪”

 しつこいようだが、また一言言っておきたくなった。誰かがこんな言い方をしていた。“莫大な借金を抱える家で、家族みんなそれぞれ我慢したり不自由したりしているのに、「同僚たちの前でフェラーリを買ってみんなを乗せてあげる」って約束しちゃったから買わないわけにいかなくなった!”とパパが言ったとして、“そういうことなら仕方ないね”って認める家族がどこの世界にいるだろうか!?と。なかなか分かり易い喩だ。まさにそうだ。今あちこちで盛んに“負の遺産”という言葉が飛び交っている。このまま無理やり進めてしまったら、まず間違いなく“一体なんでこんなもの造ったんだ!”と後世の人々の怒りと嘲笑を買うだけの代物になるだろう。是非にではない! 絶対にやめるべきだ! 今ふっとどこだかの大統領閣下が“失政なのでは? 後世にどう評価されるんでしょうね?”という記者の問いかけに対してこう答えていたのを思い出した。“なに、その頃にゃ~ここにいる誰も生きちゃ~いないだろ?”。閣下としてはほんの軽いジョークのつもりだったのかもしれないが、聞きようによれば実に不気味な発言だ。まさか同じような開き直った気分がここにもあるとは思わないが、不可思議極まりない展開ではある。

 この過程が見せているものには、また別の恐るべき側面もある。“走り出したら止まれない症候群”と“なにごとも殿のご意向に沿って症候群”だ。前の大戦に突っ込んでいった際に起きたことが想起されるとともに、Fの字の気配が濃厚だということだ。この暴虐の嵐は、中心よりその周辺の忖度軍団が突っ走ることで本格化する。すでにそれが歴然と始まっているとしか思えない。もう冗談半分に“くわかめ!くわかめ!”などと言っていられる状況ではないようだ。すでに私たち主権者に止められる段階ではない。ここぞというときの救済の風は吹くだろうか? そういう次元だ。しかし、もはや神仏に祈るしかないというあり様を恥辱と思う人々が今ここにどれほどいるだろうか? 今更ながらつくづく思うのだ。なぜあのとききちんと負けておかなかっただろうか?と。間違った道に迷ったことを真に反省するのなら、人も国も中途半端で楽な道を行くべきではないのではないだろうか。詮ないことだがそう思う。終らせるべきことはきちんと終らせ、始めるべきことはきちんと始める。そういう道を辿れていたら・・・。その人は本当にこちらのためを思って親切にしてくれいるのか、私たちはもっと真剣に考え抜くべきだったのだ。掛け間違えたボタンではなく、永遠に掛け損なったボタンの問題で抱えてしまった厄介事の数々が今私たちの上に重く重くのしかかっている。そう思うとふっとあの近未来的な派手派手しい完成予想図が実に象徴的に見えてきた。デザイナーにはなんの罪もないことなのだが、目に焼きついたあの姿がこの社会がひた隠しにしてきた巨大なツケを形象化したもののように思えてきたのだ。同時に適切な判断決断としてではなく、ついに建たないのではないかという確信のようなものさえよぎる。今の国力では無理なのだ。無様に頓挫するくらいなら、やはり潔く方針転換するべきではないだろうか。今は、斜めになって嘲笑交じりに言うのではなく、一同胞として真直ぐ真面目に進言する気持ちだ。止めましょう! そして日本国民の誰にとっても幸せな道を採りましょう!と。まだ間に合うはずだ。十分な収容力と丈夫さを兼ね備えながら、短い工期の軽量コンパクトな総合競技場、なかなかやりがいのありそうなテーマではないか。全国民の期待を背に踏ん張ったこの国の優秀な技術者たちの離れ業がまた見られるかもしれない。それを想像すると少し浮き立つものもある。頑張れ!ニッポン! 合掌。