“長い下り坂のフレームについて” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“長い下り坂のフレームについて”

“満ち足りた人々の 思い上がりを眺めてる”。陽水ってお方は、実に危険なお方だ。妖しげな微笑を浮かべながら足元を掬ってくる。無論、悪気というほどのものがあるわけじゃない。少し違うかとは思うが、“あッ、足元に気をつけて下さいね。そこ、ぬかるんでますよ”とか、“油断大敵ですよ。一寸先は闇だとかって言うじゃないですか”みたいな、結構彼なりの小さな親切だったり、自分への戒めでもあったりするのかもしれない。だが、どちらにしろ、どこかヒンヤリとくすぐってくる仕掛けではある。なぜだろう、満ち足りてるってほどの暮らし向きでもないのに、斜め後ろから見られたという感触もある。そういったところでは、ごくわずかだが、“チェッ、イヤなヤツだな~”という印象もないではない。・・・・・・・・なんでこんなことを話してるんだろうと改めて思い返して気がついた。今のこの時節、どれほどここに、その“満ち足りた人々”なるものがいるのかということをふと思ったからだ。満ち足りるとは、“かつかつですが、まあそう困らない程度の暮らしはなんとか出来ていますよ”からは遥かに遠いまさに満ち足りた暮らしだろう。満ち足りるは、過不足ないの程度を超え、欲求にたっぷり余るほどのものが手にあるということだ。当然その中には、将来への安心もあるはずだ。取り合えず今は満足でも、未来に不安だらけだったら、人は満ち足りているとは思わない。自分たちの世代は恵まれていたから老後もかなりの暮らしが出来そうな人々も、明るい見通しの立ちそうにない子供世代の将来を思えば、おちおち満ち足りている心のヒマだってないことだろう。それなりの蓄えを残してやったところで、焼け石に水ということだってある。おちおち成仏もできないというわけだ。状況がこうでは、正直陽水氏のピリ辛フレーズも少々色褪せる。何度も口にしてさぞや飽きられかつ呆れられていることだろうが、“アカルイミライ”だ。この明るい未来というヤツほど人を勇気づけるものもない。たとえ一ミリ二ミリでもいいのだ。確実に良き方向へ高まりつつあるという実感、これさえあれば、人は相当のことを耐えることができる。だが、現状は実に厳しい状況にある。明るい未来とともに、大事なのが、“社会への信頼だ”。これもしつこいほど言ってきた。決して国家ではない。重要なのは社会だ。人と人が支え合って暮らす場所であり、生命が育まれる揺籃としての社会。信頼に値する社会とはどういうものだろうか?様々な答え方があるだろう。是非ご自身でお考えいただきたい。ご参考までに、一言だけ。篤い情や精緻な論理性の問題もあるが、なにより“深くものを考えているとは思えぬ者をトップに据えないこと”、これだ。信頼、それは信頼に値する人間から始まる。選べるという立場をもっと大事にして欲しい。合掌。