“たそがれとときめきと” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“たそがれとときめきと”

 映画の内容とかけ離れたテーマ曲ということで“たそがれ清兵衛”を思い出した。かなり好きな作品だ。終り方もいい。粗末な墓の前で、戊辰戦争で生命を落とした父親の生涯を思い返す娘。短かったかもしれないが、晩年愛する女性と仲むつまじく暮らせた父親は間違いなく幸せであった、と。愚直な武士を演じた真田博之の演技も渋く光っていた。不器用で、寡黙で、ひたすら自分を殺し自分を後回しにして他に与える。そういう男が唯一執着した一人の女性。三年というあっという間の幸せな月日の後で男を襲った悲劇には、私たちにも思うところはある。一国の権力を争うという修羅場で見せる人間の理不尽と酸鼻を極める残虐は、人の世のすべてを疑わしめるに十分な惨劇となる。何千何万という人命が、すでに大勢の決した段階において更に無造作に奪われてゆく。理由は、すべてを余すところなく奪うためであり、後顧の憂いなきように根絶やしにしておくためにだ。ここには、人間という生き物の獰猛さがこれでもかこれでもかというほどあからさまに露呈されている。こういう次元に立ったときの人間ほど残虐な動物もいない。“敵は殺せ!”。権力の争奪や領土の帰趨で対立する相手を“敵!”と呼ぶとき、人の凶暴さは否応なくマックスになる。そういう修羅のただ中で、男は黙々と刀を振るいおびただしい銃弾に射抜かれて果てたのだろう。その死には、もはや中世の武士のそれにつながるようなものはほとんどなにもない。戦国時代よりも更に近代化された戦闘があっただけだ。だが必ずしも、愚直をそのままに生きた男の誇りが汚されたわけでもなかっただろう。そこでは、まるで時代を異にするかのように異物同士が互いの意味構造から排除し合いながらすれ違っただけだ。男は、自分の信念に殉じて斃れただけであって、訳の分からないものに惨殺されたわけではない。娘は、そういう父親を誇りにしてその後を生きたのだ。ここにも人間という生き物の不思議がある。同じ場にいて、同じ次元を生きていない者同士は互いにすれ違うだけだということだ。

 終始しとやかに振舞いながらも端々できっぱりと自己の意志を貫く強い女性を演じた宮沢りえの好演も見事だった。三年と言えば、例えば、満開の桜を一家で見上げながら、“来年もまた来よう!”というやり取りが三度交わせた歳月ということになる。私は、一家を温かく包んだ陽だまりのような三年という歳月に乾杯したいと思う。そういう気分で、井上陽水のテーマにあらためて耳を傾けてみると・・・・・・・。

 決められているものから徒に身を引き剥がそうとするのではなく、人がそれに進んで身を任せ受け入れるとき、図らずも人を誘うまた別の自由の感覚。井口清兵衛のあり方もこれとそう遠くはなかったのではあるまいか。自由とそして与えられた運命。一人の人であるということと、生きた時代。陽水が淡々と歌うのは、人生の中でもっとも輝かしく、そしてもっとも切ない季節だ。その背後に暗示される一組の父母の柔和な笑み。たそがれは、必ずしも淋しいばかりではない。たそがれは、また来る夜明けの予兆でもある。合掌。