“驕慢と偏狭” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“驕慢と偏狭”

 〈“小説家が書き続けることに、ただ一つ正しい意味があるとすれば、それは個の尊厳を掬い上げ、その生に光を当てることです。物語を作る目的は、私たちの生命を守るために警告を発し、システムが私たちの精神をもつれさせ、卑しめることを防ぐことなのです。

(中略)

 今日、私がみなさんに伝えたいことはひとつです。それは、私たちの誰もが、国籍や人種や宗教の違いを超えて、人間であるということです。固い壁、すなわちシステムというものに直面している、脆い卵だということです”〉。

 これは、村上春樹氏のエルサレム講演“壁と卵”の一部だ。この講演に関しては以前にも触れた。なぜまた持ち出したかと言えば、先日、たまたまチャンネルが合った局で、村上春樹氏の『1Q84』を徹底的にこき下ろしている場面に出くわしたからだ。それは実に徹底していて、果ては、人格批判にまで及びそうな勢いだったが、むしろ下に見て踏みつけるみたいなやり方で始末をつけていた。つまりは、村上春樹がキライなのだ。中でもふるっていたのが、“翻訳できないから文学なのだ!”という断言だっただろうか。さすがにこれには驚愕した。これを聞いた累代の翻訳家たちは墓の下でなんと思っただろう。なんと無駄なことに人生を棒に振ったことかと嘆いたのか、それとも、この言に憤って化けてでも出るか。言語が異なれば、互いに訳しようのない表現というものは当然ある。しかし、だからといって翻訳することを断念していたら、“世界文学”という呼称すら存在しなかっただろう。それはほとんど人類文学に等しい言い方だからだ。むしろ、不可能を可能にしようと悪戦苦闘した結果が、世界全体に肌理細やかな交流を生み、互いに影響し合い、様々な観念や概念を共有するまでに至ったのだ。すべての諸外国文学作品をそれぞれの母国語で読めるから、“世界文学”という言い方も成立するのであって、すべての文学作品は、個々の当該原語で読むしかないのだったら、容易に“世界”という言葉は冠し得なかったのではないだろうか。そもそも、この考え方でいけば、そもそも異国の人間が外国作品を原文で読むという際に起きている理解はどういうことになるのだろう。それとも、外国文学はたとえ原文で読んでも外国人には所詮理解不能なのだから、読んでも意味が無いとでも言うつもりなのだろうか? 人類が共有する世界の文学などというものはない、個々に通じ合えない孤立し合った閉鎖的な文学世界があるだけなのだ、それでいい、ということなのだろうか? そもそも、もし仮にほぼ全編翻訳不能という文献があるとしたら、最初から翻訳を目論む必要もないのではなかろうか。そういう特殊な文献は、世界で共有する意味も最初から無いのだから。念のために言っておくが、あくまでもそういう文献があったとしてという仮定の話だが。なぜ長きに亘り、営々と人間たちは、互いの文学を苦労に苦労を重ねながら互いの言語に移してきたのだろうか? そもそものそもそも、なぜ“翻訳不能”と分かったのか? よく考えて欲しい。この馬鹿げた発言がさらけ出しているのは、どう考えても、多国語を解することを鼻にかけているか、あるいは、世界中で翻訳され熱狂的に読まれている村上氏を強烈に嫉妬しているか、あるいは、端的に貧しく偏狭頑迷固陋な心性以外ではないだろう。さてしかし、こういった誰かを貶めるついでに少々極端な表現に陥ることは誰にでもありがちなことだ。だから、これ以上あれこれ言うのは止すが、呆れ果てる軽薄さではある。

 村上氏が、その読書生活の当初から、いわゆる日本文学には忌避的で、外国文学を読み耽ることから始めたというのはよく知られている。当初、そこには若気の至りの偏見や反抗心のようなものもあっただろう。しかし、今現在の村上春樹という人間の仕事を見れば分かることだが、そのスタートにある種の偏向があったことが彼を特殊な場所に導いたのではない。そもそもそういう生来の傾向が彼の本質としてあったからこそ反抗心も抱いたのだろう。原因と結果を取り違えてはならない。これは、あくまでも一般的な話として言うのだが、親世代の他国人への偏見を、当然のように受け継ぐタイプもあれば、そういう親の態度に強烈な嫌悪感を抱きながら育つ子供たちもいる。親子でも隔て合わざるを得ない人格の核の違いという壁はある。冒頭に引いた村上氏の発言がちゃんと理解できれば、彼が日本的文芸の世界から遠いところで仕事をしてきた理由は分かるはずだ。批判するなら、その主張の根幹をこそ突くべきだろう。

 番組の中で、左翼から保守に転向した老論客が“壁と卵”について言及していいたが、“自分は、壁にぶつかって壊れる卵になりたいなんて馬鹿なことを言っていたが、卵を投げる側の人間の身にもなってみろ!”みたいなことを言っていた。この発言で明らかなように、彼は、この講演をその一行も読んでいないのだ。その上で、公共の電波を使って平気で見当違いな批判いや誹謗中傷を垂れ流している。実に醜悪な光景ではあった。昔、彼がある討論番組で、“死んでいった人間たち、この国を支え、この国のために生命を捧げて逝った多くの日本人の意思(遺志でもあったろう)をなぜ尊重しないのか!”と叫んでいたのを思い出す。彼の思想の原点、彼の言説の強力な立脚点の一つがここにある。一見もっともらしいが、実に乱暴で幼稚な意見だ。死んでいった者たちの考えを、誰が知り、また誰が伝え、誰がそれを根拠とすることができるだろう。原理的にそんなことは不可能だ。人が死ぬとはどういうことだろうか? 一つには、死後の世界での発言権を失うということに外ならない。自明のことだ。死者は、死後の世界に権利も無ければ、義務も負えない。これこそが、死の清潔でもある。残された人間たちがその清潔を汚すなど許されることではない。生きていれば、人は変わる、変わり得る。君子豹変す。三日会わざれば・・・。だが、死者はすでにすべてを終えている。死者の思想や価値観を、残されたものが忖度するのは自由だろう。だが、決めつけることは許されない。死者は、静かに眠らせておくべきだ。生き残った側が、如何なる理由であれ、自分たちの意見の論拠として利用するべきではない。

 この馬鹿げた発言の趣旨は明らかだろう。“日本の歴史とその伝統”という金看板で、なんでもかんでも有無を言わさず押し切ってしまおうという魂胆なのだ。こういう考え方の底流に脈々と流れるものも村上春樹氏の言う“壁”だろう。よく考えて欲しい。以前にも訊いたが、“あなたは、本当に日本人を見たことがありますか?”。確かに、今や銀座や秋葉原は押し寄せる中国人で溢れているだろう。私たちは、そういう場所で日常的に“中国人”を見る。しかし、彼らが“中国人である”ということは、極端な言い方をするなら、中国という国と国境に幽閉された“とりあえず中国人と呼ばれている人々”であるという以上の意味を持つものではない。そうではないか。携行するパスポートや話す言語は、中国人を表徴しているかもしれない。しかし、彼ら個々がどういう考え方の持ち主であるかは、また別次元の問題だ。あの大勢の中国人の間にも私たち日本人と中国人との違い以上の思想性や価値観の隔てが存在しているのかもしれないのだ。しかし、マスとしての日本人と向き合うとき、彼らは中国人である枠に一くくりに入れられ縛られる。これこそが、壁を前にした卵という存在の脆さだ。

 村上氏の描く世界に強烈な違和感を抱くのはよく分かる。私も当初はそうだったからだ。しかし、そもそも違和感のない文学などにどれほどの意味があるだろうか。現実に向かって、現実には無いまったく新しいものを投げつけるのでなかったら、そもそも大ウソのオンパレードの架空の世界などに存在意義などあろうはずがない。のめり込むほどではないにしろ、私がある種のシンパシーを覚えながら氏の作品を読むようになったのは、彼の中核にある真面目さと遊び心と優しさに触れたと実感したからだ。

 彼の作品すべてを貫いているのは、人が触れ合い結びつくことへの強烈な渇きだろうと私は思っている。こういう感想には、違和感を覚える向きもあろうが、私はそういうふうに読んできた。言い換えれば、ますますニヒリズムが支配的になる現代社会で、人と人とがその存在の芯から交流交感することの大切さ、これこそ村上春樹生涯のテーマではないだろうか、ということだ。だからこそ、彼は、最近のインタビューに応えて、『1Q84』は僕がやりたいことのまさに本流だ”と言っているのだろうと私は思う。人間という生き物の基本単位の一つが男女の結びつきであることは言うまでもないだろう。生命は、生命が交わることによって連綿とつながってきた。『1Q84』が本流だというのはここにある。男女の交わりは、種の罠であるエロスの暴発であるとともに、単独者相互の全面的な信頼、換言するなら自らの運命を預け合う関係でもある。それは、言うなら人間における宗教的態度の最小単位と言ってもいいだろう。歪んだドグマに取りつかれて病み切った集団が暴走暴発してゆく光景に、生命にまっすぐつながる一組の男女の物語を対比させる。それが、『1Q84』だ。楽しむことはおろか、理解も受け入れることもできず、批判非難するのも仕方ないことなのだろうと思う。それも自由だ。敬意を払う必要もないと決め込んでいる人間の文章に一々目を通しているヒマなどないというのも分からなくはない。多かれ少なかれ、誰にもそういうところはある。そこだけを捉えて大げさに批判するのも大人気ない。昔から“縁無き衆生は・・・”と言い方もある。つまりは、そういうことだ。

 “壁と卵”を読めば分かるが、彼村上春樹氏が、必ずしもウマがあったわけではなかったかもしれない“父”と出会うことを常に考えつづけてきたことは確かだろうと思う。それが、ノモンハンへの関心へとつながったのだろう。作品では、彼独特の取り上げ方になっているが、その中で古井戸の中の孤独と絶望が描かれている。その無限に〔0〕に近い一点の真上を太陽が通過するという描写は実に象徴的だ。頑強な壁に取り巻かれ孤絶を強いられる、徹底的に無力な存在としての人間。人間にとって、何が希望だろうか? 光は、天空からしか射さないのか? 言葉にするまでもないだろう。その答えが明瞭に聞こえるなら、怪しげな邪教になど引き寄せられることなどないはずだ。逆に言えば、多くの若者がそういう場所に引き寄せられてゆく時代や社会の底流には無視できぬ病理が潜んでいるに違いない。このことに私たちはもっと自覚的であるべきではないだろうか。人間型が異なるだけで、秋葉原も広島事件もオウムも同じ“私たちの子供”なのだ。この事実から目を背けるべきではない。

 文学作品は、どう読まれてもいい。世に出した瞬間に、ある意味それは作家の手からも離れたのだ。好き勝手に見当違いな非難中傷を繰り返すのも自由だろう。その一々に反応するのも、また不毛だ。たった一度手を握り合っただけの少女(少年)を片時も忘れることなく焦がれつづけることのできる幸せと渇き。人間の生きる意味とはなんだろう? 何かと言えば、犠牲を強いる国家とその伝統なるものに一生一命を捧げることだろうか?・・・いや、しかし、価値観も考え方も人それぞれだ。“誰をも縛る正解というものは無い!”。これも彼が“壁と卵”に込めたかった意味だ。賛同共感できなくとも、“あなたがあなたであろうとすること”は尊重する! そういうことだ。なにはともあれ、お幸せに!

 

 

終末の雨は涙色