“小鳥たちは なにを騒ぐの?” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“小鳥たちは なにを騒ぐの?”

 前にもどこかで触れたと思うが、知的生命体としてのヒトの、知的進歩、技術的進歩には目覚しいものがある。昔はSFなどに登場するだけで夢物語にすぎなかった宇宙ステーションが、すでにこの惑星の遥か上空に浮かんでいて、そこでは飛行士たちが普通に暮らしている。一方の極微の世界では、ヒトゲノムの全貌がほぼ解明され、ナノ単位の部品の製品化まで進んでいる。どれも凄いことだと思う。これらの成果を支えつづけるスーパーコンピューターの存在、このすさまじい進化はどこまで行くのだろうと眩暈すら覚える。しかし、その果実は、甘いばかりなのだろうか?

 スーパーマーケットで、商品のラベルをひょいっとスキャナにかざして入力する仕草に違和感を覚える人は、もうほとんどいないだろう。それでも、混む時間帯では長い列ができる。この渋滞対策の一つとして、セルフ入力精算システムの普及が進行中だ。しかし、もっと驚くことがある。それに平行してすでにカゴを載せただけで瞬時にお買い上げ総計を表示するシステムの開発まで進行しているのだ。いずれ、スーパーマーケットに、おびただしい台数のこの装置が並びすいすいと客が通って行く光景が繰り広げられるのだろう。これなら、機械に不慣れな年配者でも戸惑うことなくセルフ精算ができる。私が何を言おうとしているか、もうお気づきだと思う。そう、セルフ精算システムのもう一つの狙いだ。あのレジの前に立っていたおびただしい人々は一体どこへ行ったのだろう?

 清潔明朗なオフィスでスマートウエポンを設計している技師たちに特段人間に対する憎悪や軽侮の意識があるわけではないのと同様、レジスターを企画生産する企業の技術者たちにもそういう悪意などあるわけではないだろう。しかし、彼らの努力の結晶が、弱く貧しい非正規雇用暮らしの人々から着々とその職場を奪ってゆく。プラットホーム監視用のカメラが普及したおかげで、ほとんどの鉄道でホーム要員がいなくなった。高速道路のETCにしても同じことだろう。利便性、効率性(スピード)、経済性、そしてお定まりの“コストカット”という強迫が、結果的に人間をその職場から放逐する。これらすべての現象の背景にあるのは、無軌道な知的進化と熾烈な競争だ。多くの研究室で日々行われている研究のすべてが、ごく限定された目標に向かってのものとは限らないようだ。漠然としたイメージだけが先行し、結果思いがけない新素材が誕生して人間世界を画期的に変える。ここでも、その果実に対する不安は高まる。しかし、人間という生き物の本性上、こういう探究心と競争心による暴走を制御することは極めて困難だ。母体から取り出した卵子を体外で受精させ胎内に戻す。こんな技術など昔の人々が聞いたら、一部の酔狂者を除いて大方は驚愕することだろう。そこまでするのか?そこまでやっていいのか?という違和感が先立つに決まっているからだ。しかし、“進歩”は目覚しい反面、そのスピード感はともかく日進月歩であることは確かで、着々と進む進歩とともに伴走する日常の中で、私たちは知らず知らずの内に適応することを強いられている。広く普及する前こそ、小さな装置を持ったビジネスマンが路上で大声で喋っている光景に拒否反応があったものだが、今やかなりの高齢者でも平気で携帯で話し、メールのやり取りをしている。余り嬉しい予測とは言いがたいが、今のところ、この進歩の暴走が止まる気配はない。短距離百メートル競走のタイムの壁以上に進歩の壁を予測することは困難だろう。まさに、百メートルの記録に大きく貢献しているのも新素材開発競争なのだ。

 話を戻そう。私が抱いている大きな疑問は、技術的進歩が特定の企業や株主たちを潤すことは分かっているが、果たして、世の絶対多数である市民庶民の暮らしを本当の意味で潤し豊かにしているのだろうか?ということだ。次々に素晴らしい新製品が開発され、世に送り出されるのはいい。しかし、自分たちの手を通って世に出ていった製品を買うはおろか、店頭で物色する気にもならないような低賃金で働かされている労働者たちの存在は、もはや現代版のタコ部屋、奴隷的労働の再来と言っていい。どこか決定的に可笑しなものがここにはないだろうか?

 ここで思い至るのは、様々な意味でのコントロール・システムであり、全体を展望する能力と主体だ。“あなた方は、一体全体どんな人間社会をお望みなのか?”ということに尽きる。これは、エリートたちへの問いかけであると同時に、すべての主権者への問いかけでもある。  今、人類世界を正に未曾有の経済危機が襲っている。しかし、その内実は何だろう? 一つは、実体経済を遥かに超えた投機経済の一時的(?)破綻だが、そもそもその規模は馬鹿げていると言い切っていい水準にある。言わば、永続的なバブル状態と言っていい。直接的な原因として、怪しげな福袋が取り沙汰されているが、そもそもこんなあやふやで不安定で暴力的なシステムにどうして人類がその生命と暮らしと未来を託さねばならないのだろう。いや、言い直そう、翻弄されねばならないのだ!いい加減に目を覚ましてもらいたいものだ。規格争いで出すおびただしい無駄。敗北した製品を購入した消費者に償いがあるわけでもない。客を待たせないというただそれだけのために、まだ十分に食べられる弁当やハンバーガーが大量に廃棄される現実。客が廃棄された分まで支払わされているのは明らかだが、さほど意識されているようでもない。一部にそれで辛うじて露命をつないでいる人々が存在することも確かだが、彼らはもっとまっとうに救済されねばならないのであって、その冷酷の合理化に廃棄弁当の存在が利用されたのでは堪らない。企業間競争という実際上の強迫の所為で大量の無駄を出し、一方で、もはや最大のコスト源としてしか考えられなくなった“人間”が不法投棄されている。この光景から明らかに見えてくるのは、今現在この社会が辿りつつあるのが、“人間排除”の道以外ではないということだ。誰もが、目の前の“自社の業績”と“わが身の居場所確保”という強迫に追いまくられ、全体社会がどこへ向かっているのかを見るどころか考えようともしていない。ときたま、ふっと疑問がもたげることはあっても、「考えたところで仕方ないし、今日明日の暮らしの確保の方が大事!」で通り過ぎてゆく。そうやって、落伍者を振り落としながら、進歩と革新の人の世は爆走してゆく。そして、いつか、その人類文明という列車は、正に“そして誰もいなくなった!”空の客車を引っ張って果てもなく走り続けるのだろうか? 実に馬鹿げてはいないか?

 急激な景気悪化の余波で、高校中退者が急増しているという。彼らの置かれた運命は、氷河期を嘆く大学卒業生たちに勝る過酷さと言っていい。行き場も生き場も無い有様に呻吟している。ある者は、犯罪に手を染め、ある者は風俗で糊口を凌ぎ家族を養う。ある者は、いやもう言うまい。しかし、ある意味、このようなどん詰まりの状況だからこそ立ち止まって深く考え抜く良いチャンスなのかもしれない。いや、もっと言うなら、今ここで“人の世がどうあるべきなのか?”を考え抜かなかったら、この国だけではなく、人類文明が終わるのではないだろうか。良いチャンスは最後のチャンスなのかもしれないのだ。これも以前に言ったが、まずは豊かさだけではなく、貧しさも分かち合うところから始めねばならないだろう。

 未だにそこかしこで聞かれる“繁栄”というフレーズ、私は常々強烈な違和感を抱いている。繁栄はとりあえずいい。今現在の最優先は、生きることだ。それも安全に健康的に、そしてなにより安定的に!知的種ヒトの、正に正念場が訪れている。・・・で、それを誰がするのか?って?・・・困ったもんだ。いや、本当に、この問いの前に立っている人が、どれほどいるのだろうか?・・・・・いや、誰かいるのだろうか?・・・すでにその部屋には誰も・・・いない?

 国を廃絶すると同時にいっそ貨幣制度も廃絶するのはどうだろう、と最近しきりに思う。生命に値段が無いのだったら、本来食物にも値段などあっていいはずは無いと思うのだが。そんなことになったら、誰も辛い農作業などしないだろうって? しんどい農作業もみんなで分かち合えばいいだけのことだ。けっこう喜びや楽しみになったりする。本来ヒトは、身体を使って働くことが大好きなのだ。どこの誰が、この至上の喜びを奪ったのだろうか?

 “他人と比較べる幸せなんて いらない”。きっぱりとした良いセリフいや歌詞だ。他人と幸せを比べ合うところにも、この救い難いてんやわんやの原因がある。“隣人たちと分かち合う幸せ”・・・か。さて、他愛もない白昼夢はこのあたりで。ご健闘を!