“見当違い!” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“見当違い!”

 最近の風潮には辟易させられることが多い。例えば、在任中人気の高かった元首相が引退し、その次男が後を継いで次の衆院選に立つことが決まったというので、批判が集まっている。世襲は如何なものかというわけだ。実に馬鹿げた反応ではないだろうか。一頃まで、親の仕事や家業を継ぐのは当たり前だったし、少なくとも褒められこそすれ、非難されることではなかった。むしろ、批判は、自由に自分の生き方を選びたい若者たちから、継ぐのが当然という前世代の態度に向けられていたものだ。それに、そもそも厳密に言えば、世襲という言い方は間違っている。かつてのように権力者がその椅子を後継者に譲るのとはわけが違う。有権者が選挙で選ぶのだ。医師の子が医師を目指して良いのなら、政治家の子が政治家を志して悪いわけはない。職業選択の自由は憲法でも保障されている。医師には国家試験という関門が待っているし、政治家を目指すなら、選挙という試練を通らねばならない。その候補者が前代議士の子息だからという理由だけで選ぶとしたら、それは有権者の側の問題だろう。そこに利権の構造が出来上がっているのなら、そういうものを許す選挙制度の方にこそ問題があるのであって、親の仕事を継ごうとする健気な若者に罪があるわけではない。最初から有利なのが許せないという向きもあるようだが、弱いチームのファンが相手チームは強すぎるから、このゲームは無効だと主張し始めたら、世間はなんと言うだろうか。ルールは平等に適用されるべきだが、持てる条件が平等ではないからと言って騒ぐのは馬鹿げている。確かに、現役の政治家の息子であるという条件は、突出して有利な条件ではある。しかし、それが一つの条件的要素にすぎないのは他の様々な要素と変わりはない。彼の他の様々な側面を吟味することなく、彼がただ現役の政治家の息子だからという理由だけで投票しないのだとしたら、それはそれでまっとうな投票行動と言えるだろうか? 父親の政治に問題があると言うのなら、その父親を批判すればいい。息子がそういう父親の政治姿勢までも継ぐと言うのなら、そこで判断すればいいことなのだ。政治家の子供が政治家を志してはならないということを制度化することは歴然とした憲法違反であって、出来ることではない。地元と政治家一族の癒着が問題だと言うのなら、いっそ有権者も候補者も無作為抽選で、その都度架空に設定された選挙区に振り分けられるといったような全く新しいシステムにでも変更すればいい。これなら、少なくとも選挙区と代議士の癒着の問題は完全に解消されるだろう。やり様はいくらでもある。しかし、結局根本的な問題は有権者の意識にあるのであって、他ではない。政治の劣化を政治家たちの所為にしているのは見当違いだろう。少なくとも普通選挙が厳正に行われている国で政治の水準にもっとも責任を負っているのは有権者以外の誰でもない。有権が、選ぶ側だけを言っているわけではないことは言うまでもないだろう。

 見当違いと言えば、他にもある。現総理殿が、夜な夜な贅沢な場所で飲み食いしていると言って、非難がましい意見が飛び交っている。お金持ちが自腹で高級店を利用して何が悪いのだろうか。彼が、金に任せて他の客を追い出し無理やり借り切りにしているとか、チップだと言って札びらをばら撒いているとか、そういう乱行の類を繰り返しているというのならともかく、分相応に贅沢をしているだけのことなのに、なぜこれほど目くじら立てる必要があるのだろう。実に不思議な光景だ。そもそも、お金持ちがこういう場所で気前よくお金を使ってくれなくてどうして世の中にお金が回るだろう。お金はそうやってしか回らないのではなかったか。お金持ちは大いにお金を使うがよろしい。それと、庶民感覚なるものは別次元の話ではないだろうか。彼が、一般庶民の暮らし向きに疎く、その打ち出す政策のことごとくが見当違いなものになるのだとしたら、それは、そもそも彼が一国の指導者には相応しくなかったというだけのことではないだろうか。世の資産家たちが、庶民同様のつましい暮らしに甘んじて、更にその資産を殖やしつづけたら、世の中はいったいどういうことになるのだろう。お金持ちはお金持ちらしく、金離れよく贅沢に暮らせば良い。そもそも、誰が彼を選んでいるのだ?同じ問題がここにもある。

 やっかみ半分で、目立つ事象にあれこれ言わない方がいいだろう。大概、天につばする行為か、見当違いの寝言の類になるのがオチだ。総じて、昨今のこの国では、面白おかしく物事を語ることにあまりにも抵抗感がなくなりすぎている。情報ワイド番組でも、ほとんどのコメンテーターがその発言の終りに気の利いた(?)オチをつけることに血道をあげているといったあり様だ。なにも四六時中お硬くしていろと言っているのではない。焦点になっている話題にマッチしたウイットに富んだジョークならあっていい。しかし、現状は、こぞってお茶の間の受けを狙って、まるで大喜利で競ってでもいるかのようだ。政治家がその選挙区を映す鏡なのだとしたら、こういうコメンテーターたちは視聴者を映す鏡ということになるのだろうか。笑い、取り分け設計された笑いは、人間にしかない高度な精神的遊びの一つだ。しかし、昨今のこの国は、なんでもかんでもが笑いにまぶされ、肝心な焦点がことごとくぼやかされてしまうという、およそ健全とは言えない状況にある。一頃、“毒のある笑い”などという言い草が流行ったことがある。しかし、勘違いしてはいけない。毒のある笑いが優れているのではない。そもそも笑いというもののメカニズムは、詩的表現に似て思いがけないもの同士の結びつきや衝突ということころにある。言うならば、笑いというものは基本的に危険物なのだということだ。そのことに自覚的であるかどうかが笑いのたたずまいを決める。笑いを扱うその手つきに厳粛さが滲んでいるかどうか。しかし、いつからか、この国の笑いは、毒々しい悪ふざけが主流になってしまった。なるほど、世は毒のある笑いに溢れている。その毒とやらがいよいよ回ってきたということなのだろうか。