色々と過去の話も書けたらな〜と思っております。


という訳で過去編!



祖父ですが、20年前に亡くなりました💦

元陸上自衛隊でレンジャー教育隊(?)の教官、
退役した時は准尉でした。

叩き上げとしては出世出来る最大の階級かなあと思います…。


死因としては
『原発不明がん』との事で、

始まりは首の左に出来たしこりでした。


私たち家族は祖父の右側しか見えない位置で
過ごす事が多く、全然気づきませんでした。


本人には自覚があったようで
祖母にしこりの事を話したら
病院に行けと何度も言われていた様でした。


しかし、元自衛隊員(笑)

自分の事は二の次で、

何かのきっかけで脳神経外科に行って
そこで大学病院を紹介されました。

脳神経外科に行ったのは
ガンの症状とはまた別の症状だったと思います。


家族が脳神経外科に呼ばれ、
物々しい雰囲気の中先生の話を聞きました。

内容は覚えてないけど、
その日の病院を境に祖父は段々元気が無くなりました。


大学病院に紹介されて診察して貰ったのが5月でした。


色々と精密検査をして
ステージ4の原発不明がんと言われました。

大きな血管を巻き込んでいるので手術不可。

その結果を聞く前に
祖父は車の中で

「稲穂が成るまでには退院できるかな〜」

なんて言っていたのに、、、

最悪の結果でした。


その時中学1年生でしたが
なんとなくやばい病気になって
じいちゃんが死んでしまうかも…とは思いました。

身近な人でそんな病気になった人がいなかったので
とてもショックだったのを覚えています。



入院をして、放射線治療をして、抗がん剤もしたけど
祖父は副作用も無いし効果も無かったそうです。


寡黙な祖父だったので
何も泣き言は言わなかったけど
内心とても辛かったと思います。

考えるだけで辛くて、泣けてきます。



そのうちあまり良くない意味での退院をして来て
そこから約2ヶ月とか経った時に
おしっこが自力で出せないという症状になりました。

その日は最後の砦だった
千葉で有名な癌治療のお医者さんに
セカンドオピニオンをして帰ってきた日でした。


家ではどうにもならないので救急車を呼んで大学病院まで搬送して頂きました。


すぐ導尿して、そこから入院。



再検査をしたら
肺に転移が見つかりました。


それでもタバコは辞めなかった。

もう死んじゃうのを分かってるから
好きな事してその時を待とうって思ってるみたいでした。


救急搬送されて即入院をした後に
母からクリスマスの前にじいちゃんは死んじゃうかも…って言われました。

その時めちゃくちゃ泣きました😭😭😭


じいちゃんがいるのが当たり前だったので
すごく大切とか思った事が無かったので💦

もっと大切にすれば良かった💦

そう思ったのを覚えています。



母が言った通り、

クリスマス目前にして

祖父は告知から半年で亡くなりました。


66歳でした。



最後の3日とかは意識も無かったし
酸素マスクが苦しそうでした。

個室に移されてからは
家族の宿泊も認められて
病院の一室を借りて寝泊まりしてました。

夜中病室に行って、酸素マスクを何度も鼻にかけてあげて…

じいちゃんは総入れ歯だったけど
家族の前でも絶対外さなかったのに

酸素マスクになってからは外して、

もうじいちゃんの元気な姿は見れないんだって
その時覚悟をしました。

じいちゃんの親戚のおばあちゃん達(じいちゃんの兄妹)が続々お見舞いに来る中、

夕方、みんな帰ります〜って時に
じいちゃんの血圧がドンドン下がり

27/7とかに💦

もうダメだ〜…死んじゃう…
人の血圧がこんなに下がり、

あの元気だったじいちゃんが
今は反応もしません。


そのうち上も下も無く、
血圧は0になり、

お医者さんが来て死亡を宣告しました。



じいちゃんが亡くなって、その場に居たんですが
あまりにもショックで崩れ落ちた記憶があります。




原発不明がんとの事で
症例が少ない癌なので
遺体を検体として大学病院に預けて欲しいと言われましたが、
父がこれ以上辛い思いをさせたくないとの事で
お断りしたみたいでした。

祖父の事ですから
自分の死をもってして
助かる命が増える事を望んでいそうでしたが

やっぱり更に傷を付けるのは辛いですよね。



今でも祖父の事は大好きだし、
たま〜にいまだに思い出して泣いたりしてます。

祖父がどこかで見守ってくれてるような気もして
何だか心強い日もあります。


私が忘れないうちは
祖父の体は無くなっても
魂は私の中で生き続けます。







ありがとう😊大好き❣️