●真田十勇士の家系図B(番外編。下山殿。穴山信君。武田松)
●下山殿の家系図(秋山氏。穴山信嘉。武田松)
◎甲斐国巨摩郡秋山村(山梨県南アルプス市秋山)。
※秋山氏。
※下山殿・おつまの方~武田信吉を産んだ徳川家康の側室~ (yoritomo-japan.com)
●穴山氏。
穴山信友(1506年~1561年1月1日新暦)
正室・武田信虎の次女・南松院殿
穴山信君(のぶただ。彦六郎。信良。梅雪。武田左衛門)
(1541年~1582年6月21日新暦)
養女・下山殿
穴山信嘉(のぶよし。彦八郎信邦)(?~1567年)
(主君・武田義信。義信事件により自刃する)
婚約? 下山殿(1564年~1591年11月21日新暦)
子どもなし
側室・理性禅定尼(りしょうぜんじょうに。父母不詳)
穴山彦九朗(1547年~1559年)
穴山信光?(玄蕃げんば。源覚)(1548年~1615年)
穴山小助安治(岩千代。雲洞軒)
穴山信君(1541年~1582年6月21日新暦)
穴山勝千代 (信治)(1572年~1587年)
(婚約者・武田勝頼の娘。その後、破棄)
(婚約者・武田信豊の娘)
養子・松平信吉
側室・?
娘(継室・海野信親。武田信玄の2男)
娘
松平信吉(1583年~1603年)
(元服後、武田七郎信義を名乗る)
◎穴山信君、嫡男・穴山勝千代と武田勝頼の娘の結婚が破断になり、織田信長・徳川家康と内通するようになる。信君の駿河江尻領には、金山がある。家康は、それを欲した。なおかつ家康は、甲斐国・信濃国の地理・地形にはうといため、信君に道案内を依頼する。
◎1582年2月25日(旧暦)、甲府(躑躅ケ岬館?)にいる妻子(見性院・勝千代・下山殿)が武田勝頼の人質になっているため、家康の家臣(忍者?)と穴山信君の家臣(穴山衆)たちが救出し、浜松城へ送り込む。
●良雲院(市川竹。?~1637年)。
(父、武田勝頼の家臣・市川昌永。父母不詳)(市河氏)。
1579年8月29日新暦、武田勝頼に内通した疑いで、徳川家康の正室・築山殿が処刑される。同年9月15日新暦、家康の嫡男・松平信康が自刃する。
この頃であろうか、徳川家康は、武田勝頼との関係を強くするため、武田松(武田信玄の6女)(1561年~1616年5月31日新暦)との結婚を望んだ。しかし武田松が拒否したことで、身代わりとして知名度の薄い武将の娘・市川竹が輿入れする。家康は、武田松に騙される。諸説あり。
1580年、家康と市川竹との間に、三女・振姫(正清院。1580年~1617年。前夫・蒲生秀行がもうひでゆき。後夫・浅野長晟ながあきら)が生まれる。
●下山殿(1564年~1591年11月21日新暦)
(甲斐国河内領下山、居住。山梨県身延町下山)
1582年、甲州征伐時、穴山信君(のぶただ。勝千代)は、武田松と徳川家康との間で結婚させる条件で、武田勝頼を裏切る。信君は、武田家・穴山家再興を試みる。実は、彼女は武田松ではなく養女・下山殿だった。武田松の知らないところで、家康との結婚話が勧められた。
家康は、下山殿を武田松だと信じて結婚する。2度も、武田松に家康は騙される。諸説あり。その後武田松は、剃髪して尼(信松尼)となる。
1583年10月18日新暦、徳川家康と下山殿との間に、5男松平信吉(武田万千代丸)が産まれる。