●真田信繁の家系図⑤(岩城氏。顕性院)
※桓武平氏〔繁盛孫・岩城〕-公卿類別譜(公家の歴史) (geocity1.com)
◎陸奥国岩城郡(福島県石城郡いわきぐん)。
※梅小路家(名家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~
※妙慶寺 – 由利本荘市観光協会 (yurihonjo-kanko.jp)
◎妙慶寺(秋田県由利本庄市岩城)。
1629年、於田の方が、真田信繁・隆清院のために建立する。
●真田氏。
真田信繁(1567年?~1615年)
側室・隆清院(1584年~1640年)
顕性院(けんしょういん。直なほ・於田おでん)
真田幸信(三好左次朗)(秋田真田家)
(1615年9月6日新暦~1667年)
(主君・岩城宣隆。出羽亀田藩主)
顕性院(1604年~1635年7月24日新暦)
(1584年~1672年)
岩城重隆(庄次朗)(1628年~1708年)
寂蓼院(じゃくりょういん)
養子・多賀谷隆経(戸村義国の次男)
養子・多賀谷隆家(隆房)(戸村義国の3男)
猶子・真田幸信(三好左次朗。左馬之介)
◎1614年、真田信繁、隆清院・於田(12歳)、大坂城に入る。
◎1615年3月頃(大坂夏の陣前)、隆清院(妊娠中)・於田、嵯峨野(さがの)にいる、亡き豊臣秀次の母・瑞龍院日秀尼のもとで暮らす。隆清院は、姉(於美屋御前?)の嫁ぎ先、梅小路家(初代・梅小路定矩うめこうじさだのり。1619年~1680年)でお世話になる。ここで、真田幸信を産む。
◎京都市下京区梅小路周辺。
隆清院の姉・於美屋御前の経歴は不詳ゆえ、年齢的にも梅小路定矩ではなく、梅小路に居住していた公家(氏名不詳)のことであろう。
◎於田は捕縛され、伯父・真田信之の嘆願により、江戸城大奥で奉公する。3年後、京へ戻る。
◎1626年6月、京で佐竹義宣が於田を気に入って給仕係として雇用する。その縁で、於田は義宣の弟・多賀谷宣家(岩城宣隆)の側室となる。その後於田は、弟真田幸信を京から呼び寄せて、岩城宣隆(2代目・出羽亀田藩主)を主君として従事させる。