天草四郎
過去、島原は有馬晴信、天草は小西行長というキリシタン大名の領地であったため、領民もキリシタンが多かった。しかし関ヶ原役と岡本大八事件を通して、この大旦那たちは失われ、かわりに赴任した領主、松倉氏と寺沢氏はキリシタンを過酷に弾圧した。また松倉氏は島原に城を建立、領民に過酷な負担をかけ、また幕府の歓心を買おうとした松倉・寺沢の両氏は、領民に凄まじい重税をかける。自藩の朱印高の2.5倍の負担を幕府に申し入れていたと言うから、領民から搾取する租税の量はただごとではなかった。折しも1633年、全国的な凶作がおこり、島原領は翌44年から46年までの3年間不作が続き、領内は飢饉の様相を呈していた。また領内にあったキリシタンは弾圧に苦しみ、飢餓と弾圧の中追いつめられていった。1637年、有馬村のキリシタンの庄屋三吉が転び者を立ち返らそうとしたため、代官に捕らえられそうになる。すると農民たちは蜂起し、代官を殺し、島原城を落城寸前まで追い込んだ。一揆は領内全域に広がり、天草の庄屋たちも一揆勢に呼応。大乱となった。総大将に小西行長の旧臣益田甚兵衛の子四郎時貞が担ぎ出された。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱ではカリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将となる[5]。戦場では十字架を掲げて軍を率いたとも伝わるが、四郎本人はまだ10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちで、四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちに利用されていたに過ぎないと見られている。
一揆軍は当時すでに廃城となっていた原城に立てこもり、3ヵ月に及ぶ籠城戦を続けたものの、最終的には食料も弾薬も尽きて原城は陥落し、一揆軍は幕府軍の総攻撃によって全滅させられた[6]。この時、四郎も原城の本丸にて幕府方の肥後細川藩士・陣佐左衛門に討ち取られたと伝えられる。四郎の首は、原城三の丸の大手門前、そして長崎出島の正面入り口前に晒された。なお、このとき幕府側には天草四郎の姿や容貌の情報が全く伝わっておらず、幕府軍の陣には四郎と同じ年頃と見られる少年たちの首が次々に持ち込まれたものの、幕府軍はどれが本物の四郎の首であるか分からなかったため、以前から幕府軍に捕えられていた四郎の母(洗礼名:マルタ)にこれらの首を見せたところ、母は陣佐左衛門が持って来た首を見て顔色を変え、その場で泣き崩れた。これにより、幕府軍は佐左衛門が持って来た首を四郎の首と断定したという。
細川ガラシャ
永禄6年〈1563年〉- 慶長5年7月17日〈1600年8月25日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教信徒(キリシタン)。
子に、於長(おちょう: 前野景定正室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら: 稲葉一通室)などがいる。天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので[注釈 3]、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。
再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた。
それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという。バテレン追放令が発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興は受洗を怒り棄教させようとしたが、珠は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになった。
慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた。


