*10月29日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。

 

 本日は、薩摩藩邸焼き討ち事件 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつにやり 「しらたま先生、元治(げんじ)元年(1864)の江戸では、水戸天狗党一派の騒乱を鎮め平穏を取り戻しました。庄内藩の持ち回りは品川・板橋・千住・新宿あたりだったので、それら区域の会所を廻って町役人と交流したりして治安情報を得ていたんですね。翌慶応元年(1865)五月からは庄内藩と新徴組が市中警備を一任されています」

 

 しらたまオバケ 「庄内藩士は町衆同様、新徴組とも付き合いを深めていた。隊士にはならず者もいたが職務に真面目な好青年もいる。史料の 《東役飛翰(とうやくひかん)》 を見ると、犬塚甚之助が新徴組の太田 蔀(しとみ)、鈴木清次郎、菅谷 要、小林幡郎(はたお)といった面々と友達になっているのがわかる」

 

 あんみつゲラゲラ 「へぇ~本。『酒の一升杯ハ一飲なるへし』 ですか、見廻り仕事のあとは楽しくやってたんですねぇ。焼麩とか雪海苔とか赤蕪とかの庄内の名物を土産の肴にして。クロボウって魚は雑魚のようですけど、さすがに棒鱈とかハタハタは江戸じゃ手に入らないでしょうから(笑)」

 

 しらたまオバケ 「彼らとの交流は故郷庄内の話を教え、逆に江戸の様子を国元に伝える大切な情報源だった。奇しくも彼らとはのちに越後口で共に官軍と戦うことになるんだから不思議な縁だよ。元治元年(1864)七月、庄内藩中老・松平権十郎は老中・水野和泉守忠精(ただきよ,父は水野忠邦)に江城に召され指令を受ける」

 

 あんみつしょんぼり 「この年、京都では長州藩が暴発していました。六月、御所放火のテロを察知した新撰組に踏み込まれると(池田屋事変)、七月に出兵入京。蛤御門で会津・薩摩藩兵と大規模戦闘を引き起こしました(禁門の変→関連記事 「大久保利通⑧」)」

 

 しらたまオバケ 「禁裏御所に砲撃するという暴挙で長州藩は朝敵となり、六本木にあった中屋敷(現:東京ミッドタウン)が接収になったんだ。幕命を受けた松平権十郎は180人の庄内藩兵で正門を固め、菅(すげ)実秀が邸内の長州藩士を説得し、混乱なく退去させることに成功する。彼らは霞が関の米沢藩邸(現:法務省)預かりとなった」

 

 あんみつもぐもぐ 「さらに長州藩は八月に四国艦隊による下関占領があり、九月に尾張慶勝を総督とする征伐軍に降伏。藩内の攘夷派が一掃されました。翌年の第二次長州征伐は将軍家茂の急逝で中止、かろうじて滅亡を免れると慶応二年(1866)に薩長同盟が成立。京都政界を握る <一会桑>......一橋慶喜、京都守護職・松平容保(かたもり,会津藩主)、京都所司代・松平定敬(さだあき,桑名藩主)との対立が決定的となります」

 

 しらたまオバケ 「京都での政争劇は、ここでは割愛しよう。十五代将軍となった徳川慶喜はフランス公使レオン・ロッシュを後ろ盾に幕制改革を断行し、薩摩長州はイギリス公使ハリー・パークスと親和して雄藩諸侯による共和体制実現を狙う。以前も言ったが、この時点では徳川幕府が消滅するなんて誰も予想だにしてない」

 

 あんみつ真顔 「徳川慶喜は列候会議なんて一顧だにしないですからね。薩摩長州は坂本龍馬を通じて土佐とも盟約し、武力闘争の準備を始めます。公議政体に理解を示す後藤象二郎は、将軍家に対し朝廷に政権を還し奉る...<大政奉還> を進言しました。こうすれば戦争を回避したうえ、改めて元将軍徳川慶喜に大政委任が受けられます」

 

 しらたまオバケ 「思わぬ先手に狼狽した薩摩長州は、慶喜を政治の表舞台から退場させるべく西郷吉之助が小御所会議でクーデターを起こし武力行使しようとしたんだが、これが諸藩候や公家の反発を招いてしまった。非情な西郷は、どうにか開戦の口実を探る。そこで江戸でのテロ活動を思いついたわけだ」

 

 あんみつニヤ 「はい本。慶応三年(1867)十月、西郷の命を受けた益満休之助とかつて清河八郎の盟友だった伊牟田尚平は江戸に下り、浪士どもを集めて放火・乱暴狼藉させ、治安を乱そうと計画します。目的は大軍の幕兵を江戸にくぎ付けにすることと、幕府の方から ‟最初の一弾” を撃たせること」

 

 しらたまオバケ 「テロを実行したのは相楽(さがら)総三。のち赤報隊隊長として、いわゆる ‟偽官軍” と使い捨てにされることになる。本名を小島四郎といい、下総北相馬の地主出身で、京都で平田流国学を学んでいるうち伊牟田尚平と知り合った。この年29歳」

 

 あんみつもぐもぐ 「豪家育ちの学者志望から政事青年になったというと、なんだか清河八郎と似てますね。伊牟田とつるんだところも。益満もかつて清河塾に在籍してたことがある過激派でしたか」

 

 しらたまオバケ 「江戸の薩摩藩邸(現:NEC)に入った彼らは無頼漢で成る <糾合所屯集隊> を組織した。相楽自ら町に出てゴロツキにケンカを売り、カネをやって誘ったという。そうした輩は市中の豪商で暴行・掠奪を繰り返し、その範囲は八王子から栃木や相模愛甲に及んだ。騒乱はすべてが薩摩じゃなく、ドサクサ紛れの便乗犯も多かったようだ。治安悪化を狙った西郷の狙いどおり」

 

 あんみつアセアセ 「十二月二十三日朝、天璋院(篤姫)の住む二の丸で火災が起きました。原因は不明のようですけど、ちょうど薩摩浪士が市中に放火するという流言があったので、幕府勘定奉行・小栗上野介忠順は総検挙の方針を決めました。その晩、三田の庄内藩屯所が発砲を受け、松平権十郎、菅実秀も憤激します」

 

 しらたまオバケ 「二十五日朝、家老・石原倉右衛門率いる庄内藩兵と他藩合わせて2000人が薩摩藩邸を包囲し、屯所発砲犯の引き渡しを要求したが、まぁ応じるはずがない。権十郎と菅は発砲を命じ、同行していた幕府軍事顧問のフランス砲兵大尉ジュール・ブリュネが大砲をぶちこんで藩邸を焼き払った」

 

 あんみつウシシ 「あっ、ブリュネって映画の 『ラストサムライ』 でトム・クルーズが演じたオールグレンのモデルですね(笑)。浪人どもは斬り込みますが庄内藩兵に討ち果たされ、益満は捕縛。伊牟田や相楽はなんとか脱出し、品川沖合に待機していた汽船翔鳳丸に乗って大阪に逃亡しました」

 

 しらたまオバケ 「江戸における薩摩藩の狼藉と、それに対し藩邸焼き討ちで断固処置したことが大阪に届くや、幕府内で主戦論が高まり年明けの鳥羽伏見の戦いにつながる。その意味では大きな転換点になった薩摩藩邸焼き討ち事件だが、その後の歴史の流れは庄内藩には想像もつかなかったことだろう」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 江戸の警備を遂行する庄内藩の平穏は薩摩藩の策謀により破られ、とうとう幕末動乱の渦中の人となります。

 

 次回、庄内藩燃ゆ のおはなしです。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ