*5月30日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、継子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは戦国時代の中国地方。

 

 本日は、激突 毛利対織田 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつイヒ 「先生、天正五年(1577)三月、毛利輝元は織田軍と戦うべく出陣しました。舞台は播磨国。足利幕府の重鎮、赤松氏の守護領国でしたが、すでに国人たちが自主独立しており、織田につくか毛利につくかで争鳴していました。小豪族にとっては、ここで身の振り方を誤ると破滅ですから思案のしどころ」

 

 ぜんざいねこへび 「宇喜多直家を先鋒とする毛利軍は、まっすぐ赤松広英の龍野城に進み降伏させた。小早川隆景の水軍も室津に着到し、五月、織田方御着(ごちゃく)城の小寺政職(まさもと)を攻略するため上陸したところ、英賀村で奇襲に遭い大敗してしまう。采配を振るったのは小寺官兵衛孝隆(よしたか)、あの黒田如水だ」

 

 あんみつほっこり 「あぁ、近郷の農民を後陣に集め、援軍が来たと思わせて毛利を退却させたという奇策が知られます。小寺氏は赤松氏の分家筋で、黒田はその家老職。官兵衛は政職の姪・光(てる)を娶り、小寺姓を許されていました。方針に迷う政職を説得し、織田方につかせたのは官兵衛だったとか」

 

 ぜんざいねこへび 「英賀の敗戦で播磨の豪族は織田方になびきだす。信長は羽柴筑前守秀吉を中国方面の総司令官とし、十月、秀吉は小寺官兵衛が開城した姫路城に入った。以来、官兵衛は秀吉の知恵袋となる。播磨では小寺政職、別所長治らの帰順を受け、秀吉は素早く但馬に出兵して毛利方・山名祐豊を抑えた」

 

 

播磨国内の主要城郭配置

 

 

 あんみつぼけー 「一方で秀吉は服属を拒む城は容赦なく猛攻し、降伏しても許さず、女性や幼児の非戦闘員まで磔や串刺しにしました。秀吉ってドラマでは陽キャですけど、描かれないところでかなり残忍なことやってますよね。のちの三大地獄攻城戦や朝鮮出兵につながる惨い性質です。破竹の進軍は、播磨・美作・備前の国境にあたる上月(こうづき)城まで陥としました」

 

 ぜんざいねこへび 「ゲームメーカーのコナミが、水泳とかアマチュアスポーツの育英奨学を行ってる <上月財団> は創業家の姓で、設立もここだから変わった読みだけど有名だ。私の世代だと元宝塚女優のゴンちゃん、上月晃だがね(笑)。秀吉が上月城を任せたのは麾下の尼子勝久。山中鹿之介や立原源太兵衛ももちろん供に入城し、尼子再興軍は三たびの足掛かりを得る」

 

 あんみつおーっ! 「絶好の機会をもらい、さぞ勇躍したでしょうね。ところが天正六年(1578)二月、三木城の別所長治が毛利や本願寺に呼応し、織田から離反すると、播磨の豪族がまたもやオセロのように毛利方に帰服します。説得も成らなかった秀吉は三木城に軍を進めますが苦戦し、播磨の戦況をみた毛利本隊の大軍が、上月城に攻め寄せました」

 

 ぜんざいねこへび 「赤松氏の連枝である別所の離反は、名族の誇りを蹂躙された怒りとも、親類である丹波八上城の波多野秀治が明智光秀に攻められ、支援を求められたからとも言うが本当のところはわからない。信長は播磨国衆に顔の利く摂津有岡城主・荒木村重を援軍に派遣するが、秀吉は完全に足止めされ、上月城は孤立してしまった」

 

 あんみつえーん 「備中松山城を拠点とし、長期戦で秀吉に備える毛利の大軍に、信長は無情にも上月城放棄を命令。3000人ほどで籠城する尼子勢は水と糧食が尽き、見捨てられました。やはり秀吉麾下にあった盟友の亀井新十郎はなんとか鹿之介らを助けようと脱出を勧めますが、鹿之介は城兵を置いてはいけないと断ったと言います」

 

 ぜんざいねこへび 「七月、上月城は降伏。鹿之介は勝久助命を懇願したものの、毛利は許さなかった。26歳の勝久は ‟世捨て人であった我が一時なりとも尼子の当主となれただけで本懐” と自刃して士卒の命に代えた。鹿之介は ‟思うところ御座れば、しばしこの命お貸しくだされ” と勝久の許しを得、単身投降する」

 

 あんみつもぐもぐ 「どうやら吉川でも小早川でも、直接討ち果たす機会を窺うためだったんですね。平治の乱後の悪源太義平のように。しかし松山城に引き回される途中の備中甲部川、阿井の渡しに来たところで、鹿之介は護送の河原新左衛門、福間彦右衛に背後から斬られて絶命しました。享年34。毛利は鹿之介をこれ以上生かしておくつもりはなかったようです...」

 

 ぜんざいねこへび 「ここに、鹿之介の長い尼子再興の戦いは終焉した。けっして実を結ぶことのない哀れな結果だが、まさに不撓不屈の精神力は史上屈指のものがある。史伝を書いた作家の海音寺潮五郎さんは ‟極端なねばり強さは、人生においてはしばしばもっとも恐ろしい不運のもととなる” と結んでいる。尼子再興でなく立身を目的にしていたら、もしかしたら黒田官兵衛に匹敵する参謀になったかも知れない」

 

 あんみつぐすん 「せめてもの救いは、亀井新十郎が秀吉、徳川家康のもとで勲功を挙げ、石見津和野藩4万3千石として明治まで存続、尼子遺臣の名を遺したことでしょうか。また立原源太兵衛も毛利に投降ののち脱走、蜂須賀小六の客分となり、阿波で83歳の慶長十八年(1613)まで永らえました」

 

 ぜんざいねこへび 「上月城の奪回で俄然、毛利が勢いづいた。十月、先に播磨に出陣していた荒木村重が信長を裏切り、毛利や本願寺と同盟する。信長の信頼厚く、摂津一国を与えていた荒木の謀反に、信長は驚愕して翻意をうながした。不満があるなら聞く、と弱気な手紙を送った話は有名だ」

 

 あんみつねー 「明智光秀の謀反の動機がわからないと言われますが、荒木の裏切りの理由はそれ以上に謎ですね。それにしても別所といい荒木といい、かつての浅井長政とか松永弾正とか将軍足利義昭とか、よくよく信長は裏切られる人です。最終的に本能寺で落命してしまうわけですが」

 

 ぜんざいねこへび 「本能寺までよく切り抜けた幸運の人生とも言えるがね。さて、十二月、播磨での戦況有利を受けて毛利輝元は東上しての対信長決戦を企図する。一方、秀吉は寝返った別所長治ら播磨の国人に憎悪を燃やしていた」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 播磨での毛利対織田は、豪族たちの従背に翻弄され一進一退、徐々に毛利に傾いていきました。そうした荒波のなか、山中鹿之介の戦いはついに儚い終焉です。

 

 

 次回は、飢餓地獄 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ