*5月8日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、継子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは戦国時代の中国地方。

 

 本日は、七難八苦 のおはなしです。

 

 

 

 

🍰 🥮 🍵

 

 あんみつもぐもぐ 「先生、永禄十二年(1569)六月、尼子勝久を担いで出雲国・月山富田城奪還を狙う山中鹿之介の元には、米原綱寛らの出雲国人、伯耆の大山寺衆徒に、かつて毛利を離反して逃亡した福屋隆兼、備前の浦上宗景も助力してきました。尼子の遺徳というか、毛利がいかに豪族に怨まれていたかわかります」

 

 ぜんざいねこへび 「浦上宗景はあまり有名ではないけど、浦上氏は備前守護職・赤松氏の守護代として戦国大名化した。宗景の重臣が宇喜多直家(1529~1581)であり、後年のことだが宇喜多が浦上に取って代わって備前・美作・播磨を領有する大大名となる」

 

 あんみつえー? 「鹿之介は大山寺を目指し、伯耆に向かおうとしました。ところがその矢先、隠岐為清の裏切りの報を受けます。隠岐島から出雲に渡ってきて以来、頼みにしてきた味方なのに突然何があったんでしょう」

 

 ぜんざいねこへび 「尼子勝久が為清の弟・三郎五郎清実の方をヒイキしたからだという。念此(ネンゴロ)だったんだろう。ともあれ鹿之介と立原源太兵衛は数百人を率いて松江の海岸美保ノ関に向かった。しかし隠岐勢の人数は倍。鹿之介は美保ノ関神社の鳥居の石段で、赤熊の兜の武者に刀を折られるほど絶体絶命に陥った。それを救ったのは、100人ほどで援護にきた横道兵庫介だ」

 

 あんみつぼけー 「隠岐為清は手薄の本陣を横道に襲われ、慌てて海岸から舟に乗って逃亡したんですね。大将が逃げては戦う者はいません。為清は捕らえられ処刑、隠岐勢は三郎五郎清実に預けられ、ふたたび尼子勝久に忠勤を誓いました。かの赤熊の武者は中畑忠兵衛といい、鹿之介に武勇を褒められ助命されたとか」

 

 ぜんざいねこへび 「思わぬ裏切りのせいで、貴重で大切な月日をムダにしてしまった。このあいだ、北九州で大友宗麟と戦う毛利元就は、十五代将軍足利義昭を奉じて上洛していた織田信長を通じて和平斡旋を依頼。大友は大内滅亡以前から豊後に匿っていた大内輝弘(義隆従弟)を出陣させ、山口奪還を命じていた」

 

 あんみつねー 「鹿之介が尼子再興というのと同じ、大内再興軍というわけですね。永禄十二年(1569)十月、大内輝弘は大友水軍の精鋭・若林鎮興(しげおき)舟隊の擁護で周防秋穂浦に上陸。山口に侵攻してかつての築山・大内館を占領しました。能島水軍の村上武吉が交戦を避けたというのですから、若林水軍の強さがわかります」

 

 ぜんざいねこへび 「山口を守る高峯(こうのみね)城主の市川経好は、このとき北九州に出陣していた。大内来襲に主なき城は怯んだが、なんと経好の妻が甲冑をまとい、長刀を揮って陣頭指揮を執ったので城兵は勇気百倍したという。彼女の実名が伝わっていないのが残念ながら、毛利輝元から “市川局比類なし” との感状をもらう活躍だった」

 

 あんみつおーっ! 「おかげで高峯城を死守。長府の毛利元就は筑前立花城の吉川元春・小早川隆景に撤退を命じ、毛利氏の九州進出の野望は潰えることになります。武将よりも政略家だった大友宗麟の本領ですね。毛利主力は山口に向かい、大内輝弘は戦わず退却しようとしましたが、若林水軍はすでに撤退していました」

 

 ぜんざいねこへび 「大友宗麟にとって大内輝弘は対毛利のカードでしかなかったということだ。毛利軍さえ撤退させれば大内を再興させる義理はない。哀れにも輝弘は舟を求めて三田尻、富田とさまよい、吉川元春軍に追い詰められて茶臼山(防府市)で従者ともども滅亡した」

 

 あんみつウインク 「立花城は、宗麟の降伏勧告を元就が受諾し開城。北九州の毛利方豪族もみな宗麟に帰順し、門司城のみを残して筑前全土は大友の領国となりました」

 

 ぜんざいねこへび 「毛利としては北九州の戦いが終わり山口も制圧、全力を出雲に向ける。永禄十三年(1570,四月に元亀改元)正月、74歳の元就に代わり総大将になった18歳の毛利輝元は、13000もの大兵で月山富田城を援軍した。尼子勝久を末次城に留め、鹿之介は布部という川沿いの山村に6000の兵で迎え撃つ」

 

 あんみつショック 「布部山の戦いは非常な激闘になりました。あの横道兵庫介も戦死するなど奮戦空しく尼子軍は総崩れ。鹿之介が末次城に命からがらたどり着いたとき、勝久どころか守兵すべてがホッとして涙を流したといいますから、鹿之介はまさにみんなの希望の星だったんですね。なんかいつも負けてる感じですけど、手腕と人徳は別物ということでしょうか」

 

 ぜんざいねこへび 「毛利軍の吉川元春隊は末次城を包囲。不利を悟った鹿之介は勝久を連れて新山城(松江市)に撤退した。苦労して尼子再興軍が奪還した城は次々陥とされていく。この戦況に、頼りとする秋宅(あきあげ)庵介が毛利に下ってしまった。勝久が鹿之介と立原だけに万事相談するので不満を感じたからのようだ」

 

 あんみつアセアセ 「講談の尼子十勇士のうち、実在した横道、秋宅を失った鹿之介と尼子勝久の衝撃は大きかったでしょうね。残る拠点は新山城と、米原綱寛の高瀬城(出雲市)のみです。隠岐の島も毛利の猛将・湯原春綱の水軍に占領されてしまいました」

 

 ぜんざいねこへび 「余談だがこの戦いのさなか、老齢の毛利元就が岩木源六郎という旗本が左ひざを射られ、矢先が刺さって化膿したのを口で吸ってやったという逸話がある。いわゆる <吮疽(せんそ)の仁>。《史記》 に書かれている中国の戦国時代、魏の将軍・呉起(前440~前381)のエピソードが元ネタだ」

 

 あんみつニヤ 「うはは。その部下思いに、吸われた岩木も見ていた周囲の兵も、この人のためなら命を懸けられると涙したという話ですね。しらじらしい人心掌握術とも言われますが(笑)。これといい三本の矢といい、元就の遺徳を顕彰するにはよそからイイ話をパクリでもしないと、人生通してその経略が陰険残酷すぎます」

 

 ぜんざいねこへび 「その元就は九月に病に倒れた。翌元亀二年(1571)三月には吉田郡山で花見の会を催すほど快復するも、衰弱して六月に亡くなる。享年75。最後まで戦いに明け暮れ、嫡子隆元を先に喪い隠居することが出来なかった。老いてからは健康のため酒を止め、“くだりはてたる世” を嘆いていた英雄の瞑目が大往生と言えるかどうか、われわれには量りがたいところだ」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 毛利と大友が抗争終結、山中鹿之介率いる尼子再興軍は苦戦を続けるなか、毛利元就がついに長い波乱の人生を閉じました。

 

 次回は、三日月の影 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ