*4月27日付記事 の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコニコの歴史トーク、今回はEメールのやりとりで、テーマは中世の怪物・足利義満。

 

 本日は、室町殿君臨 のおはなし。

 

 

 

 

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 あんみつショック! “先生、永徳三年(1383)二月に後円融上皇が愛妾の三条厳子(たかこ)を刀の峰で滅多打ちにする事件が発生しました。父親の内大臣・三条公忠と後円融の母・崇賢門院がなんとかとりなして厳子を手当てし、院御所から逃げさせます”

 

 ぜんざいねこへび “騒ぎのあと、義満は後円融に、北山にある崇賢門院の邸宅で休養するよう進言した。母の家で頭を冷やせ、ということだね。それに対し、後円融は直轄地である丹波国山国荘に隠居する、と言い出す”

 

 あんみつえっ “しかも、後円融はもうひとりの愛妾・按察局(あぜちのつぼね)の髪を切り追放します。義満は崇賢門院の弟・広橋仲光らを使者を送って事情を聞こうとしますが、後円融は仲光が、義満の意を受けて逮捕処刑に来たと思ったようですね”

 

 ぜんざいねこへび “うん。後円融は持仏堂にこもり、切腹をほのめかした。母の崇賢門院は泣いて諫め、事なきを得たのだが、ここまで行動が常軌を逸しては宮廷での人望はゼロだ。義満と同じまだ24歳の若さだったが、以後は表舞台から姿を消し、明徳四年(1393)に34歳で亡くなる”

 

 あんみつ得意げ “愛妾ふたりを傷つけるほど荒れた理由は、なんとなくというか、わかりやすいですよね(笑)。後円融は義満に愛妾を寝取られたと思ってブチ切れた、と”

 

 ぜんざいねこへび “摂政・二条良基の子で、これまた義満と同い年の一条経嗣という公家が書いた 『荒暦』 という日記があるんだが、ここに義満が後円融に対し、按察局との密通を誓って否定した、と書いてある。もっとも、当時の京童には公然の事実で、どっちかというと後円融のほうが笑いものになっていたようだ”

 

 あんみつむっ “按察局はともかく(?)、三条厳子を寝取ってたとなると穏やかじゃなくなります。厳子は後小松天皇の生母なんですから。昔、作家の海音寺潮五郎さんは、後小松は義満の子じゃないか、とまで踏み込んでいましたが”

 

 ぜんざいねこへび “真偽は不明というしかない。だが後円融はそれを疑ったからこそ心を病んだのだろうね。義満はいわゆるプレイボーイで、倫理的にルーズだった当時にあっても度を越していた。満仁親王の愛妾や後光厳院の女房、後年には実弟・足利満詮の正妻まで手をつけている。高い身分の妻妾を奪うことで、男としても、他人に優越しているという自尊心に浸っていたのだろう”

 

 あんみつにひひ “いやいや、こんな人が宮中にいたら、公家は沈黙するしかないですね。表面上、後円融と和解した義満は <源氏長者・淳和奨学両院別当> これは名誉職ですけど、ついで <准三后> の宣下を受けます。皇后と同格とは、それまで皇族・高僧以外、武家で礼遇された人はいなかったわけで、義満の地位向上が窺えます”

 

 ぜんざいねこへび “ここにおいて、義満は名実ともに朝廷の頂点に立った。高潔な禅僧として畏敬された 義堂周信(1325~1388) は、義満を 『聖徳太子の再来』 と書いている。ぜんっぜん清廉な人物ではないんだが(笑)、禅宗を保護したり、南都東大寺や興福寺を参詣して寺社勢力とも融和を図ったことを指しているのだろう”

 

 あんみつべーっだ! “義満にとっては、寺社勢力も己の支配下に置く対象だったでしょうけど(笑)。当時は僧兵が神輿や神木を担いで朝廷に要求を通す <強訴> がしゅっちゅうでしたが、義満はシカトしたみたいですね”

 

 

足利義満木像(等持院霊光堂)

 

 

 ぜんざいねこへび “その勢威は、義満を将軍でも左大臣でもない、<室町殿> という称号に結実させた。室町というのは北大路室町通にある花の御所を指し、公家はだいたい邸宅のある地名を名乗っていた。余談だが俳優の北大路欣也は、お父さんの市川右太衛門が北大路に屋敷を構えていたことにちなむらしい”

 

 あんみつべーっだ! “公家ってだいたい藤原姓ですからねぇ。九条・一条・二条・近衛・鷹司など、住所で区別をつけないとわけがわからない。ボクだって親戚に電話するとき、名字じゃなく 神奈川のあんみつです って言いますから”

 

 ぜんざいねこへび “単に住所に過ぎない室町殿が、公家も武家をも統合する敬称となった。義満は権力を磐石にするため、将軍としての軍事力を強化すべく、<奉公方> という直属軍を整備した。さらにそこから選抜された将軍親衛隊を <御馬廻衆> といい、各大名家の庶子を抜擢している”

 

 あんみつにひひ “しらたま先生だったら、ナチスのSSとかヒトラー・ユーゲントに例えるかも(笑)。大名家の庶子は惣領の家来になるか、捨扶持をもらって冷遇されるかです。それが、義満に忠誠を誓えば将軍の親衛隊になれるとあっては、大名家を操って内紛を煽ることだって出来ます。うまい考えというか、姑息というか”

 

 ぜんざいねこへび “朝廷は掌握した義満だが、大名家の統率にはなお一筋縄ではいかないものがあった。だが転機は嘉慶元年(1388)十二月、美濃・尾張・伊勢の太守、土岐頼康の死で訪れる。彼はかつて、細川頼之の更迭を義満に迫ったひとりだ。義満は嫡子・康行の相続を認める一方、弟・満貞を重用した”

 

 あんみつ得意げ “満貞って、義満の名前をひと文字与えてますね(笑)。案の定、康行と満貞のあいだで内紛が起こり、康行は反乱分子として幕府軍の討伐を受けることになります”

 

 ぜんざいねこへび “しかも先方衆は、同族の土岐頼忠(頼康の弟)だ。明徳元年(1390)閏三月、土岐康行は美濃の小島城に籠って戦うが降伏。守護国は解体され、中部地方の豪族土岐氏は没落した”

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 天皇家すらも呑みこむほど朝廷を掌握し、<室町殿> として畏れられた義満のターゲットは、足利幕府内で強盛を誇る大名家に向かいます。

 

 次回は 明徳の乱と南北朝合一 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコニコ

 

 

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