砂鉄など、日本国憲法のもとで「弱者のための政治」を確立させようと思っていると私は解釈。国連の威も借りているので、権威主義でもあると私は理解。「性的同意」など典型と私は思う。要は世の風潮を「同意を逸した性交批判」にすることで、場に流されやすい「子供」を保護。と解釈すると全うな論と思えるが、恋愛の自由さの否定と私は考える。

 理屈が好きな私には文明による保護によって人間が弱くなった証左。だから人間を「強く」するため、強権主義や国家主義、家父長制が目立つようになったと仮設でき。だから自分たちの正しさを前提にトランプ主義や中国の国家主義、安倍政権から菅政権に続く説明拒否など、民主主義に対する攻撃を批判するのは全う過ぎで。全うを言うのはいいが、論を展開すべきかと。各国の国民が強いものにあこがれる気持ちを、批判してもいいから理解すべきであり。

 しかし番組を聴くかぎり、問題と指摘するだけ。多分田原総一朗が右の論客として西部邁を番組に呼んだのは、左の思想の鍛錬と精緻のためだったと推察。しかし現実の経過は右翼思想の台頭を左派は見逃して見過ごして、国民一般にも左翼思想は机上の論と理解され。実際、教育を含む政策として反故にされた思想と思うし。小説家なら物語で問題を指摘できるが、評論では扇動しにくいから。扇動こそ荻上の忌むべき手法と察するが、時代は鬱憤の解消を求めていると私は理解を。

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