日本で、そして世界で宗教が捨てられようとしている 現代人の死生観「もう救いはいらない」
上記のリンク先の記事を読み、呑気だなと思う。と言っても記事自体は宗教界の惨憺たる現状を紹介する価値あるもので、島田裕巳の報告に私も感謝。問題は(宗教を信じる機会を逸した私が言うのも変かもだが)「死生観A」を否定する余裕が生まれ、「死生観B」が信じられるようになったと人間の方と私は考える。大急ぎで解説すると前者は「いつまで生きられるか分からない」時代での認識であり、後者は「死に至る人生をスケジュール化」できる時代での認識。
つまり生と死が思考をショートカットできる対象と人が理解/認識したために、宗教は「無用のものとなり、捨てられることとなった」らしく。また今回のコロナショックにより、「捨てられつつある宗教に致命傷を与えた」とも島田は指摘を。しかし私は(新興を含む)特定の宗教への帰依を避けつつも諸行無常だけは真実と思っているので、突発の事件/事故によって宗教が求められる時代が来ると想像/想定し。物語としても否定から肯定への過程は面白いはず。
考えてみれば死生観Aは自然と対峙する(のを好む)家父長制に、死生観Bは人権を尊重するジェンダー思想に、親和するのに気づきまして。つまり科学技術文明は前者を否定し後者を絶対とする価値に(論理としても経過としても)帰結する形。しかし科学は予測・予報をもたらしたが、「バタフライ効果」が起こることも実証したのでした。些細な変化が回りまわって大きな現象の遠因になる例え話で、もし真なら科学自身が科学による計算不可能の実証を意味。
だから地球人類より科学が進んだ社会では、再び宗教が求められるはずで、事情は多分、宇宙に生活圏を求めるため。立花隆の『宇宙からの帰還』で神秘体験を得た宇宙飛行士(アストロノーツ)の報告があったが、宇宙での作業自体が決死の覚悟が要るはずであり。たとえ恒星間飛行を実現した「人類」でも甚大な宇宙事故はたまには起こるはずで、祈祷などの「神への祈り」を行うと想像され。クラークの『幼年期の終わり』のオーバーマインドよりさらに曖昧な存在ということ。
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