「(前略)眼にしたって、うしろにぜんぜんなかったらしいから、ふたつしか持っていないことになる(後略)」

 私が持っているのは銀河万丈さんが朗読してくれた版と違い、「明日にとどく」所収の宇野利泰訳。だからか、あだち充のマンガのような普段どおりの会話が似合い。とはいっても初読での最後のどんでん返しは同じような驚きを与えてくれるはず。今回数年ぶりに再読し、結末を分かって読むと作家クラークの物語り方の巧緻が改めてわかる。

「センス・オブ・ワンダー」とはSF(らしさ)の指標のひとつだけど、体験するのは小説として読む私たち読者とともに、事実として体験する劇中人物。つまり人間だが、異星人を救援隊として(未来の)地球に来させることで、「ワンダー」の体験者を地球人の他者にできた。しかも高度な技術体系を構築した宇宙人でも地球での科学技術の発展を観測しそこなったので、珍道中の箇所あり。

 つまり姿かたちは違っても本作でクラークが書いた宇宙人(=異星人)は、クラーク自身にとってはの地球人の未来の姿と推察可能。そもそもクラークはヒトとしての生物の自分の姿を「途上のもの」と思っていたと仮定すれば、本作で示された「救援隊」の隊員の姿こと未来の人類、つまりヒトが宇宙に出ていく上での理にかなった形と考えていたのかも。

 しかし劇中では異星人と設定された人類の先駆者は、地球人類の急激な発展の帰結を知り、驚愕を。さらに末文で、クラークは人類への壮大な期待を表明したかたち。

 が、その後二十年して、そのことばもただの洒落とはいえなくなったのである。

 良くも悪くも「人類スゲー小説」の真骨頂であり、SF小説に広大な未来があった時代、つまりSFが若者/新参者だった証。だからもう一度「メタ」で考えると宇宙人/異星人は恩着せがましい親や世間、「脱出」した地球人は必要なものは自分たちで切り開くと宣言した「SF者」と考えることができ。

 

参考:太陽系最後の日 (ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 1) (ハヤカワ文庫SF)

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