一九八六年の時点で「子供対大人」の構図の『機動戦士ガンダムΖΖ(ダブルゼータ)』を発表した、
富野由悠季の心理が今にしてわかる。平和論で巨大な発言が出来るのは経済人で、だからと云って、
「人はパンのみにて生くるにあらず」は、日本の例では「欲しがりません勝つまでは」と意味が、
ずらされた。だから富野はブライトに(大人の)社会を代表させ、ジュドーから修正させたと理解。

 だが以上がΖΖの(作劇としての)限界でもあり、本当に「子供の国」を作れるのか、私は当時から、
ジュドーも木星船団入りてからは社会の一員になると想像した筈。『PANTA―歴史からとびだせ』は、
一九八九年十二月の出版だけど、一九八五年までザ・スターリンを聴き続けてきて、皮肉な見方が、
私の思考と思想として確立した筈だから。

 尤も今にして思えば「子供対大人」の対立構造の表現自体を評価すべきで、ジュドーの将来問題は、
当時の私に課せられていたと今気づく。今日になってΖΖの主題・主張を考えたくなったのは、
せめてお話でも「子供の国の建設」を見たいと思ったため。つまり現実に稼働する大人から大人に、
引き渡してきた社会が、少しずつ良くなる方向からずれていると私も思うからで。

 だから平和主義をお花畑とあしらう現実主義者、実際に外交圧力を行使し続けている政治家への、
批判の意味でも「大人のための子供の物語」を私は見たくなり。浮気などの情の問題は大人として、
ブログでも徹底して避けるけど、人類(全体)の問題であれば、反抗期の少年のように徹底批判を、
すべきと思うのですよ。ガンダムでできるかは回答保留したいけど。

 常識という ルールで
 はかれない世界を
 忘れちゃいけないよ
 夢をわすれた古い地球人よ
作詞 秋元康 
作曲 芹澤廣明
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