ニールス・ボーア
一九二〇年春のベルリン訪問でアインシュタイン、プランク、ほか何人かのドイツの物理学者と始めてあった。フランクとは暖かい友情を結んだ。フランクはまた、一九二一年にできたブライダムスヴァイの新しい研究所の最初の客員研究者になった。
『ニールス・ボーア その友と同僚よりみた生涯と業績』より
ボーア
忙しかったにもかかわらずプランクからドイツ物理学界でスペクトル線の講演を依頼されたとき、喜んで引き受けた。量子論を発見したプランクは偉大な存在で、喜んで手紙をマルグレーテやハラルドに見せた。
物理学教室の建物に着いたとき、プランクとアインシュタインが喜んで迎えた。プランクはドイツ風の教授らしい人で、足早に出てきた。禿げた頭はまっすぐに立っていたが、小さなふちなし眼鏡の眼はあたかかく微笑みかけていた。またはじめて、ヘヴェシイが「あの大きな眼」と評した、アインシュタインの眼に見入った。有名な髪は暈状にひろがり、服装は形式ぶって見えなかった。
量子論の次の世代を作るであろう四人のうち三人が集まった。軽い冗談を言い合ったが後は物理学の議論ばかりしていた。
しばらく前にアインシュタインは、定常状態の遷移から電子の発光による遷移の、一般の統計的原則を出した。「アインシュタインは、統計的記述の基本的性格を最も示唆的な方法で強調し、放射性の電子の転移の出現を放射性物質の変換を支配する法則を比較した」。と言った。
講演で、遷移に関する正確な決定はできないと言った。
アインシュタインは科学の伝統を継ぐ者として、「要素的過程の時間と方向に」決定の余地を残すものに反対した。法則によりすべての作用は予知されねばならぬと確信していた。二人が会ったとき、相違がはっきり現われた。
「光子を導く幽霊の波」という絵のような言葉を使ったのは、さす様な意見の背後にある、深いユーモアであった。
しかし態度と展望にちがいはあった。……アインシュタインは連続性と因果性を捨てることなしに、見かけ上矛盾した実験を整合しようとした。
原子現象に関する事実を整合するための当面の作業を進めるのが唯一の方法と見た人たちを批判したのであろう。
アインシュタインとの最初の会見で問題点を提出し合い、どちらも相手を満足させるように答えられなかった。プランクは議論の外にいたようであった。
『ニールス・ボーア 世界を変えた科学者』より
ボーア、アインシュタイン、ヘヴェシー
ニールス・ボーアが初めてセミナーに登場したのは、一九二〇年四月のことだ。ボーアにとって初めてのベルリンだ。初対面のプランクと行動をともにし、アインシュタインとも知り合いになった。アインシュタインは、ボーアが「ただそこにいただけで」幸せだった、と述べている。ボーアの方でも、アインシュタインと話をしたことは「これまでで最高の経験」として感謝している。ヘヴェシーは「ベルリンでボーアに贈られた拍手喝采は、これまで聞いたこともないものだった。老いも若きも、心から素晴らしいと讃えた」
『リーゼ・マイトナー―嵐の時代を生き抜いた女性科学者』より
(四月下旬と推定)
ボーア
アインシュタインと初めて会った年で、原子理論を講義するためベルリンに招かれた時だった。
ボーアが到着するや、白熱的な議論がはじまり、滞在中のあらゆるあいだ、時間は原子理論の議論でうめられたのは当然のことだった。どちらも相手を最高に評価し、理論物理学を活気づけていた大難問に夢中になっていたからである。
(不明)
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