最終回の先週分の録画視聴が残っているアニメ『鬼平』、二回ほど録画し忘れたけど面白かったです。
実写と違って残虐や残酷も表現していて、テレビで放送できる大人のためのアニメと納得。ただ、
(土地柄と時代の両方の意味で)江戸を微細に華麗に表現したため、動かすという「アニメイト」は、
(たぶん和装の動かし辛さという理由もあり)動かしたい箇所だけに限定したみたい。

 でも(一枚)絵でも色気があると思えたので、私自身は物語を楽しむのに専念でき。一方で嘗て、
『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』などで楽しんだ「時代劇」の本質、というより江戸までと明治以降の、
日本(社会)の違いを改めて気づいたのでした。簡単に言えば江戸時代が終わるまで、日本では、
「権力者の温情」が可能だったということ。

 上記の二本も庶民の切羽詰まった時の悪は諭すだけが多かったと思うけど、今回の『鬼平』では、
取り締まる方の独断による規則違反が、明確に描写されてた。確かホームズでも似た話があったが、
探偵業は民業だから辛うじて成立すると考える。多分ホームズが減益だったころのロンドンでも、
警察が規則違反をすれば報道され、市民の世間話のネタになったと推測し。

 つまり「弱きを助け強きを挫く」の時代劇の思想/精神は、「支配されるだけの存在の庶民」が、
前提で成立すると気づいたのですね。実は一、二時間前、「立場」という日本の思想を批判する記事を、
読んでいて。確かに大東亜戦争と「戦後」の経済戦争を同じ思想で日本(人)は戦ったという仮説に、
私は納得を。しかし立場を本気で弁えれば安定した社会が築けると『鬼平』で私は想像。

 実は来訪したアインシュタインが日本社会の優しさを分析した結果でもあり。関東大震災直前、
来日したアインシュタインは帰国した後、ボルン教授に以下の文面を送付。

奥さんからのお手紙拝見しました。全くおっしゃる通りです。実際のところ、日本の社会や芸術がなごやかさを持っている理由は、個々人が大きな枠の中に調和していること、つまり個々人が生きるのは自分自身でなく、属する共同体に他ならないという点にあると思います。われわれも若い比は憧れましたが、あきらめる他なかったわけです。目に入ってくる共同社会は、わが身を捧げる気が起きないものばかりです。常にごく少数の現行構成員しかいない、本等に求める人々からなる共同体は別ですが。

 考えてみれば市民社会が確立した後では全ての事件が報道され、社会から批評される「恐れ」が、
あると考えられ。アインシュタインが来朝(当時の来日の呼称)した当時でも報道機関を直接、
制御できる程度だから(今から考えれば)確固とした市民社会が存在していたか疑問。しかし政府への、
漠然とした信頼があったから、大東亜戦争中でも物資が豊富な時代は和やかに庶民は暮らしたと考え。

 つまり市民社会とは市民が自らを恃んで生活・活動できるかの実験であり、しばしばの混乱は、
前提とすべき事態と私は結論付け。しかし江戸時代一杯までは行政の利権となる巨大な産業を、
欠いていたはずだから、各々の立場で暮らしても当時の価値観で幸福だったと私は推察。つまり、
現在の日本で人権の標榜は個人においては絶対の権利で、国においては絶対の義務という意味。

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