前回は三か月以上前になったけど「囚人のジレンマを逸脱する方法」を紹介しますね。お浚いとして、
国際政治を囚人のジレンマとして考察するのが前提なので、囚人のジレンマ自体を簡単に紹介。要は、
銀行強盗でも詐欺でも同じだけど、二人組が捕まって各々別個で尋問された時、互いに信頼すれば、
黙秘で無罪放免になるのに、疑心暗鬼になると相方を貶めるために白状することになる「ゲーム」。

 しかし上記の条件のゲームは『タッチ』の幼馴染み三人で戦わせた時も同じだけど、密室劇という、
欠陥がある。つまり私に言わせれば囚人のジレンマを国際政治に応用・適用した場合、「観客」という、
曖昧で日和見の要素を(多分存在するのを分かって)捨象していると考えるのです。池田信夫が、
最近も北朝鮮問題で適用していたけど、関係国の国民感情を排除した考察だったし。

 でも北朝鮮問題では小泉政権の時代、拉致被害者の帰国は国家間の約束では一時帰国。が、
北朝鮮が拉致を認めたことに却って日本の世論は反北朝鮮になり、日本の行政機関は拉致被害者を、
日本に居続けさせることを決定したのでした。つまり民主主義を標榜する国家では政府の決定を、
覆させることが出来るわけ。簡単に言えば国際政治は本来、観客が存在するプロのゲームという意味。

 しかしもう一つ、国際政治と囚人のジレンマでは、「談合」に違いがあり。要は野球やサッカーなど、
直接の経済社会が存在する競技では、プロは憧れる対象になるため正々堂々の戦いが必要。一方で、
国際政治で正々堂々はあり得るか? もし戦い続けることが正々堂々なら、国家は戦い続けるのが、
義務の組織と結論できるけど。もしくは戦い方が正々堂々と理解すべき?

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