ヒルベルト
戦争にもかかわらず、木曜日の数学的散歩は続けられた。ミンコフスキーの存命中よりも多くの人々が散歩に加わった。ランダウと、応用力学の教授のルドヴィヒ・プラントル。もう一人はカラテオドリだったが、一九一一年にクラインが再度の精神的挫折に悩んでから、援けるために戻ってきたのであった。呑気で教養の高いギリシャ人の家族のモットーは「あまり無理をしないこと」というものだったが、伝統的なゲッティンゲン流の数学者になった。デバイも教授会の正規のメンバーとなっていた。
戦争前にはいつもこんでいた研究室は、ほとんどガラ空きだった。頭のよさ、良い成績、指導教授による推薦状、学者としての将来等は、軍務の免除に何の役にも立たなかった。ランデは、目が悪かったので初めから持たなかった。
始まった年に、フランツ・ヒルベルトは二一歳だったが、軍隊はとらなかった。ヒルベルトは、息子の将来に関して、希望をつないできていた。或る時には、ゲッティンゲンの庭師の見習いとして働いていた。助手をしていたエーヴァルドに話している。「私だって若い時には一寸うすのろだったんだから」。フランツが精神的に通常でないということが明らかになった。夫人は大変に心配して、フランクフルトの友人から定期的に報告を受けていた。
『ヒルベルト――現代数学の巨峰』より
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