一週間後、教育相ルスとが公式演説で、「ある有名なユダヤ人化学者が、共同研究者は資格に基づいて選びたいと主張している」ことに言及した。全く認めがたいことだとルストは述べた。ハーバーは追い出された。蝿か何かのように。前から健康状態は思わしくなかったが、心底疲れきった。自分は役立たずだ、と思い知らされた。怒りと孤独に苦しんだ。長生きしすぎた、と思った。研究所をふさわしい後継者に委ねたいと願ったが、かなわなかった。
プランクは四月はじめからイタリアで休暇を過ごしていた。マイトナーの手紙でハーバーの一件を知ると、慌ててベルリンに戻ってきた。KWG総長でハーバーのためにとりなしをするつもりだったが、ドイツから届くニュースを気に留めていなかった。政府に異議を唱えることになると思うと、おじけづいた。マイトナーは当時を回想している。「絶望的な表情で、こう言ったのでした。『しかし、法で決まったことじゃないか』。こんな無法が法といえるでしょうか、と私がいうと、かれはほっとしたようでした」
一九三三年五月一六日、プランクはヒトラーに面会している。一四年後に発表された記録を読むと、ヒトラーはユダヤ人全般をののしり、だんだんと激高して、どうすることもできなかった。ほうほうのていで帰ってきた、となっている。ところが最近の情報によると、それほどひどくはなかったらしい。夏、プランク、ハイゼンベルク、ラウエの三人は、かなり楽観的だった。卓越した「非アーリア人」物理学者ならばとどまることを許されるのではないかと考えていた。だからこそボルンらを説得して、当面ドイツ国外に職場を移してくれるなといったのだ。ドイツ科学のためには全員に出て行かれたら困る。少なくともすぐれたユダヤ人が残れば、ナチス体制に協力することにもなる。
ハイゼンベルクがボルンに述べたように、「ひっかかるのはほんのわずかで、あなたもフランクもそうならないはずだし、クーラントも外れるのだから、政治革命が起こっても、ゲッティンゲンの物理学は無事だろう。……そうこうするうちに、自然にいい流れが生まれてくるのではないか」。楽観主義、とくに「ほんのわずか」、つまり若い物理学者は犠牲にしてという物言いは、ボルンに冷酷に響いたに違いない。ボルンも、フランクも、クーラントもゲッティンゲンには戻らなかった。とどまることもできなかったろう。化学者が大量に追放されたため、ドイツ科学は大きな痛手を受ける。
オットー・ロベルト・フリッシュは一九三〇年以来、ハンブルクのシュテルンの研究所で研究に取り組んでいた。が、三三年、シュテルンと研究者のほとんど(フリッシュを含め)が職を追われている。シュテルンは、カーネギー・メロン研究所に移った。当時二九歳のフリッシュは、どこにでも喜んで行くつもりだった。ローマのフェルミのもとで一年間研究できることになったが、復職できるじょうきんでないという理由で、
撤回されてしまった。しかし、チャンスは他にもあった。英国が、ラザフォードを会長とする学術研究支援評議会を通じて、援助活動を行なっていたのだ。ボーアは、とくに若い科学者にポストを見つけるべく、目配りをきかせていた。一九三三年末フリッシュはロンドンに移り、一年間ブラケットのもと研究することになった。後はコペンハーゲンに移り、三九年までとどまった。
カイザー・ヴィルヘルム研究所では、マイトナーの地位は当面安泰のようにみえた。しかし同僚との間で育んできた絆は、揺さぶられていた。ハーンの筆頭助手オットー・エアパッヒャーは、熱心な党員であった。実は研究所に送り込まれた党諜報員だったのだ。マイトナーの筆頭助手であるクルト・フィリップは、すっかりのぼせてしまった。マイトナーの学生ゴットフリート・フォン・ドロステは、SAに参加してから茶色のシャツばかり着ている。ドロステをSAに無理やり誘ったのは、ヘルベルト・フップフェルトという学生で、ものの見方が過激なあまり、まもなく研究所をやめてしまった。しかし本当の脅威は、クルト・ヘス教授であった。研究所三階に研究室を構え、独立した有機化学部門(いわゆるゲスト部門)の部門長であった。「熱狂的」ナチとして有名でかねてからハーンの地位をねらっていた。そして三三年の事件によって、野心に火がついた。マイトナーの隣人でもあった。ティラレーの研究所村で、アパートの隣に住んでいたのだ。
春は仕事に集中できなかった。リーゼは、友人とつらい議論を繰り返して眠れない夜を過ごし、無力感と孤独感を味わった。ナチス体制のもと、ドイツ人同僚は党の会議に出たり、党内での地位を競い合ったりしている。学生団体が外で集会を開くと、実験室は空っぽになった。ある時フィリップは顔を紅潮させて戻ってくるなり、「ぼくもヘス教授くらい『ホルスト・ベッセリート』がうまく歌えるようになったんですよ」と自慢した。マイトナーは絶句した。フィリップは四〇歳になろうかという、立派な大人である。「あなたがお給料をもらっているのは、そういうことのためではないと思うけど」。功答えるのがやっとだった。
四〇〇〇マイル離れた土地で、ハーンはドイツ国内の動きと無縁の生活を送っていた。多くの学者と同じく、政治には興味がなかった。アメリカやカナダの新聞を読んでも、にわかには信じられずにいた。
四月初旬、『トロント・スター・ウィークリー』のインタビューを受けた時、ドイツを弁護して、ユダヤ人迫害は共産主義の抑圧に付随するものだ、と述べている。さらにヒトラーの禁欲的な精確に触れ、「まるで聖人のような暮らしぶり」と語った。「ヒトラーを弁護、『聖人のような生活』をする男の残虐行為を否定」という見出しがついた。ハーンは生来国家主義的傾向があり、公民権が蹂躙されるのではという懸念を口にしたとしても歯切れが悪かった。といって特殊なわけではない。プランクをはじめ多くの「善良な」ドイツ人が国民の結束意識を新たに呼び覚まされ、「素晴らしい」ことが生まれるだろうと期待していた。だから当初はナチスのやり方を深刻に考えなかったのだ。
友人や研究者仲間が大勢追放されたことをエディスやリーゼから聞いて、ようやく事の重大さに驚き、動揺した。五月三日ハーバーが追放された頃、リーゼはすぐ帰ってほしいと頼んでいる。
どうぞ講義が終わったら帰っていらして、そのまま国を離れないでいただきたいのです。いらっしゃらないのは、エディスにもつらいことです。……時折ひどくおちこんでいるのは、ご存知でしょ。研究所内に、国家社会主義者の集団ができて、とても組織的に動いています。(後略)
次の手紙では、ろくに手紙を出せなかったことを詫びて、「この二五年間、私が感情的な話をしたがらないことは、わかっておいででしょう」と書いてから、カリフォルニア旅行をやめてすぐベルリンに帰るように繰り返した。「科学研究者の皆さんも同僚も、そう望んでいます。(中略)……ハーバー先生の辞職はもちろん痛ましいことです。でも、皆がお追従を並べて得をしようと、熱に浮かされてでもしたかのようにうろうろしていることも、同じくらい不愉快です」。それでも、ドイツ人同僚との関係は良好であり、「おかげでいろいろなことが楽」と言って、ハーンを安心させている。
オットーは、コーネル大学での講義が終わり次第、帰ることにした。リーゼは、ユダヤ人排斥運動をより根深い悪意のあらわれとみていた。「反ユダヤ主義は問題の一つに過ぎません。深刻な、もっと深刻な問題があるのです。ドイツのことを思うならば、どうなるかを考えるべきでしょう」
ナチスは社会のいたるところで支配力を強めていった。教育面では、政治的教化を強調し、学問や科学研究に対する蔑視を明らかにした。新体制に反発する知識人や科学者は、無力感に打ちのめされた。
戻ってきたハーンは「アーリア人」教授たちが、「非アーリア人」同僚の扱いに抗議すべきではないか、と提言した。「しかし、プランクたちが反対した。『そういう意見を持つ学者を五〇人集めたとしたら、明日には、そのポジションをよこしてほしいとか、大臣に取り入ろうかと思っている連中が一五〇人やってくるだろう』。それで、何もする気がなくなった」。抗議団体がなかったため、まとまって活動しようもなかった。フィッシャーの後を継いだ著名な化学者ヴィルヘルム・シュレンクは公然とナチス批判を口にし、ハーバーを擁護し続けた。結果、大学教授の地位を捨てざるをえなかった。
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