shiwasu5さんとのブログ記事とコメントのやり取りで、私の方はワイマール共和政のドイツを、
論じました。付け焼刃の知識だけど納得の記事と自惚れますが、五月下旬の当時、進めるべき論は、
[3513]偶像と政治までと認識。しかしニースのテロやトルコのクーデター(未遂)と、
社会の安定を損なわせる事件が起き、「人類は辛抱強くなるべきという理解」を論ずべきと私は考え。
単純に言えば「活き活き(生き生き)とした社会」という定義は「安定」と「活動」という、
矛盾する二つの要素を含んでいるということ。矛盾と気付いた直接の切っ掛けは「列島震災」で、
被災地になった区域の社会が一遍に崩壊したと知ったから。復興に成功した地域も(思考や人間が)、
「断絶」したことが容易に推察。つまり社会は一つの事件で変わり得るという理解。
だから「社会の安定は思い込み」という私の思考の論拠になるけど、発想できたもう一つの理由に、
「日常感覚よりも論理」をアインシュタインやディラックの伝記で知ったことがあると思う。前者は、
特殊相対性理論の発想、一般相対性理論の建設という物語、後者は泥縄式のディラック理論の、
展開が該当している。アインシュタインは大本の思考で、ディラックは思考の継続で勝利した形。
簡単に言えば特殊相対論では光速度一定を理論の原理(現実の大前提)として、一般相対論では、
「重力と加速度を同じ現象」という思想で理論を構築し、二つの相対論とも成功を。結果は「特殊」は、
時間の進み方は個々の場所で「相対的」と明かし、「一般」ではニュートン力学の想定を越えて、
重力で空間が歪む論拠の証明に。
ディラックは「電子の相対論的方程式を見出す」という企てが虚数を必要とするため、苦心して、
自分の理論を(半ば強引に)展開したのですね。見出された結論は反物質という概念。しかし、
臆病なために思いついても年単位で公表を渋ったらしく。私はアインシュタインとディラックの、
研究例によって「理論(論理)は感覚に勝る(ことがある)」と思ったわけ。
また「吐き気がするほどロマンチックだぜ」というTHE STALINの「主義者」の歌詞を、
一九八一年当時に素直に聞いた体験があり。今では偉人の思想は敬意すべき対象と思っていますが、
ニュートン力学から一般相対論への物理学の発展を知り、思想にも適用限界があると推測し。では、
現下の状況で「適用限界」が問われる思想や哲学とは?
[3588]「人類は辛抱強くなるべきという理解」・その2
[3671]「人類は辛抱強くなるべきという理解」・その3
[3724]「人類は辛抱強くなるべきという理解」・その4
[3796]「人類は辛抱強くなるべきという理解」・その5
[3462caos 1.txt]